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第38話 決断と後悔


 霧の中で、時間だけが削られていく。


 胞子は絶え間なく舞い、砦の周囲はすでに人が踏み入る場所ではなくなっていた。倒れた兵の(うめ)きと、抑えきれない咳が、湿った空気に混じって消えていく。


 レグルスは、視線を切らずに状況を測り続けていた。

 ――このまま戦えば、全滅する。



 彼は、霧の向こうで指示を出していたブリュンヒルデのもとへ駆け寄った。


「少尉……ブリュンヒルデ少尉!」


 短く名を呼ぶ。

 彼女はすぐに振り向いた。顔色は悪いが、判断力は失われていない。


「……見ての通りだ」


 ブリュンヒルデが、歯を噛みしめたまま言う。


「この魔獣を近距離で討伐するのは不可能。砦ごと、空間ごと焼き払うしかない」


 言葉を選ぶ余裕はなかった。


「中尉の大規模火炎魔法なら、討伐は可能だ」

「たしかにそうだが、詠唱には時間がかかるぞ?」

「分かってる。だからその間、奴を引き付けておく必要がある」


 詠唱中は無防備。

 霧と胞子に晒され続ければ、術者は持たない。


 彼は一度だけ、周囲を見回した。


 まだ動ける兵。

 すでに仲間を支えながら後退している者。

 そして、自分の隊。


 決断に、迷いはなかった。



「俺の隊が(おとり)になる」


 低い声だった。


 ブリュンヒルデの目が、大きく見開かれる。


「曹長、それは――」

「他に道はない」


 遮るように言い切る。


「少尉は、詠唱に集中しろ。不要な兵を下げて安全圏を確保して、魔法を通せ」

「レグルス……」

「……頼む。ブリュンヒルデ」


 ほんの一瞬、二人の視線が交わる。

 ブリュンヒルデは、唇を強く噛みしめた。


「……分かった」


 それ以上、言葉はなかった。死ぬなよ、と伝えたかったが、それも飲み込んだ。この状況で私情を挟むべきじゃないことは、二人とも分かっていた。



 レグルスは踵を返し、自分の隊へ戻る。

 霧の中、低く、しかしはっきりと告げた。


「いいか」


 二十名近くいる隊員たちの視線が集まる。


「俺に……お前らの命をくれないか」


 理由は語らない。

 なぜという問いも、起きない。


「「「了解です、隊長!!」」」



 ブリュンヒルデは、レグルスに言われた通りに撤退命令を出した。


 混乱の中でも、兵たちの正気は保たれていた。

 霧の向こうで、ブリュンヒルデは一瞬だけ視線を走らせる。


 レグルス隊が前に出ている。

 胞子の濃度が最も高い領域で、あえて大きく動き、魔獣の注意を引きつけているのが分かった。


(……すまない)


 彼女は小さく息を吸い、足を止めた。



「詠唱を開始する」


 誰に告げるでもない、ただ己への覚悟だ。ブリュンヒルデは両手を重ねる。低く、静かな声で、火炎魔法の詠唱を紡ぎ始めた。


 空気が、わずかに震える。

 熱が、霧の奥で生まれていく感覚。


 その途中で、彼女は腰元に手を伸ばした。


 握り込んだのは小型の魔導具、閃光弾。

 それを空に投げ上げた。


 ――次の瞬間。白い光が霧を切り裂き、戦場を一瞬だけ昼に変えた。


(頼む、この隙に退避してくれ)


 それは事前に取り決めてあった合図だった。

 レグルスたちに、退避のための、わずかな隙を与えるための光。


 詠唱は、止まらない。

 魔力が臨界へと達し、彼女の足元から、赤い紋様が広がっていく。


 そして――



赫炎殲滅フレイム・アニヒレーション!」


 大地が、光に飲み込まれる。


 轟音。

 熱。


 砦を覆っていた霧と胞子が、一瞬で焼き払われた。

 ベノムイーグルは、断末魔を上げる暇もなく消滅する。


 砦は、奪還された。


 だが。

 戦場に残った人影は、明らかに少なかった。


 瓦礫の中で、レグルスは膝をつく。

 まだ、生きている。

 近くには、数名の兵が倒れ込んでいた。


 アッポロ。

 フリッツ。

 ドクペイン。


 そして、もう一人。


 だが生存者は、レグルスを含めた五人のみだった。



 瓦礫の間を、足音が駆け抜ける。

 ブリュンヒルデは、ほとんど転ぶようにしてレグルスのもとへ向かった。


「レグルス!」


 呼びかける声は、思った以上に震えていた。


 膝をついていた彼が顔を上げる。(すす)と血に汚れてはいるが、確かに生きている。その姿を確認した瞬間、胸の奥に溜め込んでいた息が、一気に抜けた。


「……良かった、生きていたか」


 それだけを、絞り出す。


「ああ。ギリギリだがな」


 レグルスは苦笑し、周囲を見回した。


 倒れ伏す兵の数は、あまりにも多い。

 五人だけが、生き残っていた。


 その現実が、ブリュンヒルデの胸を強く締めつける。


「私が……」


 言葉が続かなかった。

 そのときだった。


 魔導通信器が、短く鳴動する。

 嫌な予感が、背筋を走った。


 通信が繋がった瞬間、怒声が叩きつけられる。



「――命令違反だ!!」


 割れんばかりの声。


「誰の許可で撤退した!!」


 ブリュンヒルデが、反射的に一歩前に出かけた。


 だが、レグルスはそれを制するように、静かに手を上げた。通信器に向かって、低く答える。


「命令より、人命を優先した。目標は達成したんだ、アンタもそれで満足だろう」


 一瞬の沈黙。

 次の瞬間、嘲るような笑い声が返ってきた。


「命令は遂行されて当然だ。兵士ごときが、上官に意見するな」


 吐き捨てるような言葉。


「処分を楽しみにしておけ」


 それきり、通信は一方的に切断された。

 耳鳴りが残る。


 ブリュンヒルデは、その場に立ち尽くした。

 何も、言えなかった。



 ◇


 ――回想は、そこで終わる。


 カルデサックの食事処。

 静けさの中で、ブリュンヒルデはゆっくりと言葉を継いだ。


「命令違反をしたとして、彼は軍法会議で処罰されかけた」


 淡々とした語り口だった。


「だが最終的には、皇帝陛下の判断で、正式な処分は免れた。軍としては……彼を失うのは惜しい、とまで言われた」


 レティシアが、奥歯を噛みしめる音が小さく響く。


「それでも」


 ブリュンヒルデは、視線を落とした。


「レグルス自身が、軍を去ることを選んだ」


 マールが、そっと問いかける。


「どうして……?」


 ブリュンヒルデは、一拍置いてから答えた。


「彼は、私にこう言った」


 ――俺は、この国のために軍で働いてきた。

 だが、それは間違っていた。


 魔の森をどうにかしようとあがくのは、分かる。

 だが誰かが決めたルールに縛られていたんじゃ、何も変えられない。


 だから俺は、別の方法で、この国を救う道を探す。


 そこで、彼は問いかけてきた。


 ――ブリュンヒルデはどうするんだ?

 このまま軍で、上官の命令に従って過ごすのか?



「私は……答えられなかった」


 ブリュンヒルデは、自嘲するように笑う。


「すると彼は、こう言ってな」


 ――ふっ。それがお前の正義だというなら、俺は止めないさ。だが、俺は俺の道を行く。


 それが、別れだった。

 恋人関係は、そこで終わった。


 想いは残ったまま、

 ただ、自然に。



「クラウスは……どうなったの?」


 レティシアの低い声。

 ブリュンヒルデは、はっきりと答える。


「作戦は“成功”扱い。奴は少佐へ昇格した。……皮肉にも、私もな」


 食事処の空気が、凍りついた。

 それが、この国の現実だった。



 沈黙を、最初に破ったのはレティシアだった。


「……ふざけないで!」


 食事処に、鋭い声が響く。


「人が死んでるのに!」


 握りしめた拳が、かすかに震えていた。


「功績? 昇格? そんなもののために、何人死んだと思ってるのよ!」


 吐き捨てるように言う。


「パパもパパよ! どうしてそんなことを許したの!」


 ブリュンヒルデは、正面からその怒りを受け止めた。視線を逸らさず、しばらく黙ってから、静かに口を開く。


「……陛下も、苦渋の判断だった。民の安寧をもたらすのが王の役目だからな」


 言い訳のようにも聞こえる言葉。

 だが、それ以上の説明はしなかった。


 重たい沈黙が落ちる。


 その中で、マールは何も言わず、ただ俯いていた。小さな手が、膝の上で強く握られている。やがて、ぽつりと声が落ちた。



「それでも……」


 二人が、同時にマールを見る。


「レグルスおじさんらしい、勇気ある撤退だと思う」


 言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。


「だって……多くの兵隊さんを救ったんだよね?」


 一度、息を吸う。


「それに今、おじさんが生きていてくれて……本当によかった」


 その言葉に、ブリュンヒルデは息を詰めた。

 喉の奥が、ひくりと鳴る。


 しばらく、何も言えなかった。

 やがて、かすれた声が漏れる。



「そうか……あのとき私は、君と同じことを言うべきだったんだな」


 短い沈黙。視線を伏せたまま、絞り出す。


「あなたの判断は、誇りだと」


 誰に向けた言葉なのか、分からない。去っていった背中は遠く、もう届かない。


 再び、沈黙が落ちる。

 長く、静かな時間だった。


 ブリュンヒルデは、最後に小さく息を吐いた。


「私は……本当に愚か者だ」



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