第33話 一方その頃⑤ 鬼仮面は光を追う
辺境伯家の屋敷を背に、ルシアン・ヴェイルは一人、立ち止まっていた。
背後にあるのは、すでに“過去”になった場所だ。腐敗し、歪み、そして――マールがいない屋敷。振り返る理由は、もうない。
彼の視線は、自然と前方へ向けられていた。魔の森。大陸の中心に巣食う、忌まわしき魔境。その奥に、今も確かに生きていると信じる存在がいる。
(……必ず見つけます、マール様)
胸の奥で、静かに誓う。
ルシアンは歩みを止め、胸元へと手を伸ばした。指先が触れたのは、小さなロケット型のアクセサリー。年季の入った金属の表面は、何度も磨かれ、幾度となく握られてきた痕跡を残している。
それは、肌身離さず持ち歩いてきた品だった。
留め金を外し、そっと開く。
中に収められていたのは、一枚の紙切れ。
幼い子どもが描いた、稚拙な“絵”だった。ルシアンの指先は、震えるほど優しくその紙に触れた。
(嗚呼、なんと愛おしい……)
それは物心つく前のマールが、彼に向けて描いてくれたものだった。丸や線。それらを無造作に並べただけの、誰とも判別できない落書き。第三者が見れば、意味を持たない走り書きにすぎないだろう。
だがルシアンにとって、それは何にも代えがたい宝物だった。
そしてその絵と一緒に、大切そうにしまわれていたものがある。
細く、柔らかな一本の髪。
マールの髪の毛だった。
彼は、しばし目を閉じる。
(これは一度きりの方法。ですが……)
髪や爪などを使って身体の持ち主が居る場所を探す、ルシアンのオリジナル魔法。人探しには便利な魔法だが、一度使用した品は消えるという欠点がある。本当に必要に迫られた時のために、今日まで使わずに取っておいた奥の手だ。
だが、もう迷いはなかった。
ルシアンは静かに光魔法を行使する。
次の瞬間、髪の毛が淡く発光した。
温もりを帯びた光が、指先から零れ落ちることなく、一本の線となって空間へと伸びていく。
細く、しかし確かな光の筋。
それは遠方へと導かれるように、森の奥へ、奥へと延びていた。
追跡魔法の発動。
示されるのは距離ではない。ただ“方角”のみ。しかし光が示したということは。
「……やはり、まだ“生きている”!」
歓喜で叫びそうになるのを抑えながら、ルシアンはロケットを閉じる。
そして、腰に提げていた仮面を手に取った。
黒く、無骨な――鬼の仮面。
それを顔に被った瞬間、感情の波がすっと沈む。
「待っていてください、マール様。ルシアンが今からお迎えに参ります!!」
次の瞬間だった。
ルシアンの姿は、光のような速度で消えた。
魔の森を、駆け抜ける。
行く手を阻もうと現れる魔獣たち。
だが、襲いかかる暇すら与えられない。
すれ違いざまに、剣閃一つ。
次の瞬間には、魔獣はその場に崩れ落ち、絶命していた。
立ち止まらない。
振り返らない。
ただ、光の示す先へ――
鬼仮面は、ひたすらに走り続けていた。
◆
――その頃。
リヴィア龍帝国領にある魔の森・中層エリア。
「……おかしいな」
不安を隠しきれない声で、龍帝国の新人傭兵が呟いた。
彼の周囲には、同じく若い傭兵が五人いた。いずれの部下も経験は浅く、若さと勢いを頼りに仕事を受けてきたヒヨッコ小隊だった。
「この辺り、浅層のはずだろ?」
「いや……木の密度も、魔力の濃さも、どう考えても違う」
誰かが喉を鳴らす。
気づいた時には、すでに引き返す道は分からなくなっていた。
――魔の森中層。
新人にとっては、踏み込むべきではない領域だった。
「くそ! 魔獣に出くわす前に戻らないと……」
焦りが、足並みを乱す。
そのときだった。
ふわり、と。
空気にツンとした匂いが混じった。
「な、なんだ……?」
次の瞬間、視界の端に無数の光が灯る。
青白く、揺らめく小さな光点。
「フレイムフライだ!」
誰かが叫んだ。
毒蛍――フレイムフライ。
蛍が魔獣化したモンスター。体内に溜めた毒性ガスを放出し、それを自ら燃焼させることで、高温の炎と強烈な光を生み出す厄介な魔獣だ。
じゅわ、と音を立て、周囲に毒ガスが広がる。
「まずい、吸うな!」
リーダーが警告をするが、それは遅かった。
次の瞬間。
――ぼうっ!!
ガスに引火した炎が一斉に燃え上がる。
熱。
光。
視界が白く焼き潰され、方向感覚が奪われる。
「うわぁぁっ!」
「見えねぇ!」
新人傭兵たちは完全に包囲されていた。
――終わった。
リーダーの脳裏に、そんな言葉がよぎった、その瞬間。
新たな“光”が来た。
(な、なんだ……!?)
それは、フレイムフライの光とは質が違った。
圧倒的な白。
すべてを塗り潰すような、純白の輝き。
炎も、毒も、悲鳴も一瞬で、消えた。
気づけば、熱は引き、空気は澄んでいた。
「……え?」
呆然と立ち尽くす新人傭兵たちの前に、一人の男が立っていた。
鬼の仮面。
全身を包む気配は静かで、しかし異様な圧を放っている。
腰が抜ける、という表現を、男は生まれて初めて実感した。鬼面の男は剣を収めながら、淡々と口を開く。
「幼女を見なかったか?」
あまりに唐突な問いだった。
「は……?」
仲間の一人が、緊張を誤魔化すように笑う。
「こんな森に幼女なんているわけ――」
言葉は、最後まで続かなかった。
男は、その仲間に一切の興味を示さなかったからだ。
視線すら向けない。
まるで、背景の一部を見るように。
その無関心さに、場の空気がひやりと冷えた。
「……ようじょ、か」
ぽつりと。
先ほどまで黙っていたリーダーの男が、独り言のように呟いた。
「そういえばカルデサックの街で……」
自分でもなぜ口にしたのか分からない。ただ、頭の片隅に引っかかっていた噂が、勝手にこぼれ落ちた。
「やたら可愛い幼女が、魔の森に出入りしているって話が……」
仲間たちが、ぎょっとした顔でこちらを見る。
「おい、余計なこと言うなって……」
時すでに遅し。
次の瞬間。
視界が、黒に塗り潰された。
気づけば、目の前に鬼の仮面があった。
「――っ!?」
両肩を、がっちりと掴まれる。
逃げ場はない。
息が詰まるほどの圧が、真正面から叩きつけられた。
「その話、詳しく聞かせてください」
低く、抑えた声。
だが、有無を言わせぬ強制力を孕んでいた。
「ひっ……!」
身体が震える。
「そ、それ以上は本当に分かりません! た、多分……今日もオッサンたちと魔の森に行ってるんじゃないかと……」
街で聞いた、曖昧な噂。
伝聞にすぎない話。
それ以上、語れることなど何もなかった。
だが――
「どこの馬の骨とも知れぬジジイが、マール様を!?」
怒気が、爆ぜた。
掴まれた肩に、ぎり、と力がこもる。
「いだっ……!」
悲鳴が漏れる。
その瞬間。
はっとしたように、力が抜けた。
鬼仮面の男は、すぐに手を離す。
「……失礼」
わずかに視線を逸らし、淡々と続けた。
「情報、感謝します」
「あ……」
呆然とする一同の中で、一人の女性が一歩前に出る。
角を持つ龍人の女性傭兵。
彼女は頬を赤く染めながら、恐る恐る声をかけた。
「あの……よければ、その……お礼に、街で食事でも……」
沈黙。
鬼仮面の男は、即答だった。
「いえ、結構です」
それだけ言うと、踵を返す。
「僕は先を急ぐので、これにて失礼」
次の瞬間、再び光が弾けた。
男の姿は、森の奥へと掻き消える。
残された新人傭兵たちは、しばらくの間、誰も言葉を発せずにいた。
◆
数時間後。
どうにか無事に帰還した彼らは、カルデサックのギルドで酒を飲んでいた。
「……魔の森で、鬼仮面を見たんだ」
「光魔法を使う、とんでもない強さでよ」
「フレイムフライを、一瞬で倒したんだ。魔獣よりよっぽど恐ろしかったぞ」
「でもカッコよかった……」
「あぁ? 顔なんて仮面で見えなかっただろ……」
「はぁ~、これだから非モテ共は。恋は顔じゃないのよ、顔じゃ」
半ば興奮、半ば恐怖混じりの噂話。
それを、少し離れた席で聞いていた一行がいた。
「へぇ……」
マールが、素直な感想を口にする。
「なんだか、変わった人がいるんだね」
その隣で、レグルスがわずかに眉をひそめた。
「光魔法、か……」
一瞬、遠い記憶を探るように目を細め。
「……いや、やめておこう」
首を振る。
「嫌な記憶が、掘り起こされそうだ」
それ以上、彼は語らなかった。
だがその沈黙こそが、これから起きる再会を予感させていた。
――――――――――――
【SS:ハンナ婆さんの台所】
まったく……。
鍋は三つ、焼き物は二皿、煮物に漬物、焼きたてのパンまで並べちまって。
(ふぅ、こんなもんかねぇ)
ハンナ婆さんは腰に手を当て、湯気の立つ食卓を見渡した。
昔なら、家族が集まる日でもなきゃ、こんな量は作らなかった。息子が死んでからは、そんなこともめっきりなくなっていたが――。
「わぁ……!」
戸口から、ぱっと花が咲いたような声。
「ハンナおばあちゃん、すごい!」
マールだ。
椅子に座るや否や、目をきらきらさせて料理を見回している。
(……孫がいたら、こんな感じだったのかねぇ)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「ほら、冷めないうちにお食べ」
「うん!」
素直な返事と一緒に、ぱくり。
「……おいしい!」
それだけで、苦労が全部報われるんだから、安いもんさね。
マールは夢中で食べ進め、やがて――
「ふぅ……」
小さなお腹を、ぽんぽこりんと撫でた。
「た、食べすぎちゃった……」
苦しそうなのに、顔は嬉しそうで。
「ハンナおばあちゃんのごはん、マール大好き!」
――ずるいね、この子は。
胸が、きゅっと締めつけられる。
(初めて会った時は……)
ガリガリで、痩せっぽちで、男の子みたいな格好をしていて。
レグルスは“訳ありだ”と言っていたけれど、どんな目に遭えばあんな姿になるのか。親か、それとも――
「どうしたの、ハンナおばあちゃん?」
口元に食べかすをつけたまま、無垢な顔で首を傾げる。
(……いいや。過去なんてどうでもいい。今、この子が笑ってる。それで十分さね)
「さぁさ。お茶を出すから、もう少し休んでいきな」
そう言ってから、残った料理を見て、苦笑い。
「しかし……さすがに作りすぎたかねぇ」
――その時。
「マール、いるか?」
扉の向こうから、聞き慣れた声がした。
「ちょうどいいところに来たね。アンタたちも、食べていきな」
ぞろぞろとやってきたレグルス隊の面々に、ハンナ婆さんは声をかけた。
「えっ!? 婆さんが俺たちを食事に誘うなんて珍しい!」
フリッツが目を丸くする。
「なんだい、文句があるなら帰りな」
「モグモグ……そうだぞフリッツ」
すでにテーブルの料理に手を付け始めたアッポロが、なぜか同調する。
「まっさか!」
フリッツは慌てて椅子に座った。
「最近、金欠で困ってたんだ。ありがたいっすよ~!」
「……すまない。助かる」
レグルスは、どこか愁傷な顔で頭を下げる。
「……ふん」
ハンナ婆さんは鼻を鳴らす。
「いいから、アンタもさっさと食べな」
さっきまでと打って変わって、ガヤガヤと賑やかになる食卓。やれやれと息をつきながら、ハンナ婆さんはお茶の準備を始めた。
(まぁ……たまには、こんな日も悪くないさね)
そんなことを思うハンナ婆さんの表情は、どこか少し嬉しそうだった。




