第31話 食後の襲撃
河豚フライと毒舌女王蟻ソースを堪能したお昼休憩。
美食の余韻を名残惜しく思いつつ、マールたちは気を引き締め直した。
結界で形作られていたテーブルと椅子が、ふわりと淡い光に還っていく。結界を解体するたび、きらきらとした粒子が舞い、やがて何事もなかったかのように消えていった。
「よし。撤収完了だな」
レグルスが短く言う。
その横で、マールはまだ結界椅子に座ったまま、ぽわんとした顔をしていた。頬はほんのり赤く、満腹を全身で主張している。
「……おなか、いっぱい……」
小さく呟きながら、ぴょこんと立ち上がろうとして、少しだけよろけた。
「ほら、足元気をつけろ」
レグルスが自然に手を伸ばすより早く、レティシアがひょいとマールの腕を掴んだ。
「ちょっと。食べ過ぎて転ぶとか、みっともないわよ」
口調はいつも通り刺々しい。
だが、掴んだ手は離れない。
「えへへ……ありがとう、レティシアちゃん」
「……別に。見てて危ないから注意しただけよ」
そう言いながらも、レティシアはマールの手首をしっかり支えたままだった。
アッポロとフリッツが、その様子を横目で見て、意味ありげに口元を歪める。
「随分と仲良くなったな」
「いいんすか隊長? 姫様に保護者ポジション盗られちゃいますよ」
「ふん、俺が子どもに嫉妬するとでも?」
「とか言っちゃって、さっきからずっとソワソワしてるくせに」
「ほーう? じゃあフリッツには、寂しくて可哀想なジジイの相手をしてもらおうか、特別ハードな訓練で」
怒りで口角をヒクつかせたレグルスに、フリッツは「じょ、冗談っすよ!」と言って逃げ始める。一方のドクペインは、いつも通り何も言わず、周囲の植物と地面を淡々と観察していた。
やがて、隊は再び歩き出した。
進路は中層へ向かわず、浅層を引き返す帰還ルート。危険はそこまで無いはずだった。
――にもかかわらず。
森の空気が、どこかおかしい。
木々のざわめきが、落ち着かない。鳥の声がしない。魔力の濃度自体は、浅層としては変わっていないのに、肌に触れる感覚だけが、妙に粘っこい。
レグルスは、歩調をほんのわずかに落とした。
「……妙だと思わないか?」
低く漏れたその一言に、隊の空気が即座に引き締まる。
「今日遭遇した魔獣。浅層にしては、厄介な連中が多すぎた」
フリッツが思い出すように眉を寄せる。
「ポイズンフロッグに、毒舌女王蟻……どっちも本来は中層寄りっすよね」
「そうだ」
レグルスは頷き、周囲を睨むように見渡した。
「魔の森の奥へ行くほど魔力は濃くなる。強い魔獣ほど、それを求めて深く棲む。わざわざ浅層に出てくる理由がない」
アッポロが腕を組む。
「じゃあ、なんで来てるんだ?」
その問いに、レグルス隊長の返答はなかった。
代わりに出たのは、別の人物からだった。
「……なんか」
マールが、きょろきょろと周囲を見回しながら、ぽつりと言う。
「怖がってる、感じがする」
一瞬、全員の視線が集まった。
「怖がってる?」
レティシアが聞き返す。
「うん。どの魔獣さんも、森の奥から逃げてるみたいな」
「いや、逃げるってなにから――……っ!?」
そのとき、レティシアの表情が変わる。
戦闘者としての勘が、彼女のスイッチを切り替えた。
「……全員、警戒しなさい」
短く告げると、彼女は一歩前に出る。拳は自然に構えられ、視線は茂みと地形の陰をなぞっていた。
レグルスもまた、剣に手をかける。
マールは二人の間に立ったまま、少しだけ不安そうに眉を下げた。
ざわり、と。
進行方向の茂みが、大きく揺れた。
――グオォオオオ!!
木々を震わせるような重低音のうなり声。枝がきしみ、葉がまとめて押し分けられる。現れたのは、明らかに“人間”ではない影だった。
(お、おっきい……!!)
熊型の魔獣。四つ足で立っていても、優に大人の背丈を超える。分厚い前脚には鋭い鉤爪。口を開けば、並んだ牙は肉を引き裂くための形をしていた。そして頭頂部には異様なオーラをまとう突起物が……。
「コイツは……」
レグルスが低く告げ、隊列が自然に止まる。だが次の瞬間、意外な反応が返ってきた。
「なんだ、パープルベアー(毒熊)か」
ホッとしたように、わずかに肩の力を抜いた。
その言葉に、アッポロとフリッツも得心がいったように武器を下ろす。
「驚かせやがって、まったく」
「見た目は物騒だけど、雑魚代表みたいなやつだな。基本、こっちから仕掛けなきゃあっちから逃げるし」
緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。
マールは、ぱちぱちと瞬きをしてから、そっと口を開く。
「……こわく、ないの?」
「えぇ」
答えたのはレティシアだった。
「この熊はビビりで有名なの。“頭に毒キノコを生やしている”けど、基本は臆病。わざわざ人間に喧嘩を売るような種類じゃないわ」
野生の動物が種を守る方法というのは、実に多種多様である。単純に強いものだけが生き残るという単純な世界ではないのだ。
“逃げるが勝ち”。その言葉が象徴するのが、まさにこのパープルベアーだ。彼らは危険察知能力と逃げ足を磨き上げることで、この魔の森という魔境でサバイバルし続けてきた。つまり彼らにとって逃げる能力が高いほど、優秀な個体なのだ。
まるでそれを証明するかのように、パープルベアーは一歩踏み出しかけて、ぴたりと止まった。もう一度低く唸り声を上げようとして――途中で詰まる。
後ろ脚が、じり、と後ずさった。
そして。
のそり、と前脚を揃え、地面に伏せる。
――土下座のような姿勢だった。
「……」
一同、思わず言葉を失う。
「ここまで見事な命乞い、初めて見たっすわ」
フリッツが乾いた笑いを浮かべた。
パープルベアーの全身から、完全に戦意が抜け落ちている。前脚はぺたりと地面に伏せられ、頭はこれ以上ないほど低く下げられる。震えが、体毛を通してはっきりと伝わってきた。
「……そもそもコイツ、パープルベアーのくせに白いわね」
レティシアが、ふと呟く。
そう、本来はパープルベアーの体毛は紫色のはずだった。
だが、目の前の個体は雪のように、真っ白だった。




