第29話 苺ほっぺ
毒舌女王蟻を討伐してからも、探索はそのまま続いた。
魔の森は静まり返っているわけではない。むしろ、戦闘が終わった直後だからこそ、別の魔獣が寄ってくる可能性がある。レグルスは歩調を落とさず、周囲に鋭い視線を巡らせていた。
やがて、森の様子がわずかに変わり始める。
木々の背が少しずつ高くなり、地面に落ちる影が濃くなる。浅層と中層の境目――魔力の流れが、肌で感じられるほどに変質する地点だ。
「進むのはここまでにしよう」
短い指示とともに、ころころと転がっていた結界トロッコが静止した。不釣り合いなほど目立つピンク色の結界が、森の中でぴたりと止まる。
レグルスは周囲を一巡し、魔獣の痕跡や気配を確認する。問題なしと判断すると、ようやく肩の力をわずかに抜いた。
「小休止だ。警戒は維持するが、今のうちに体を落ち着かせておけ」
その言葉を合図に、隊の空気がふっと緩む。
「いやぁ~、さすがに連戦は疲れますねぇ」
「女王蟻の後だと、そこらの魔獣が可愛く見えるな」
フリッツとアッポロが、それぞれ軽口を叩きながら荷を下ろす。ドクペインはいつもの調子で、周囲の植物を眺めつつ危険度を確認していた。
そんな中、マールはトロッコのそばにちょこんと座り込み、皆の様子を見回した。
「ちょっと休憩だよね?」
誰に言うでもなく、確かめるような声。
レグルスが短くうなずいたのを見て、マールはぱっと顔を明るくした。
「……じゃあ、ごはん、食べる?」
あまりにも自然な提案だった。
「お、賛成」
「はいはい、いつもの流れですね」
アッポロとフリッツは即座に頷き、ドクペインも特に否定しない。完全に慣れた反応だった。
――ただ一人を除いて。
「……は?」
間の抜けた声を漏らしたのは、レティシアだった。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。ここ、魔の森よ? しかも今、浅層と中層の境目。休むだけでも警戒必須の場所で……」
言葉を重ねる彼女に、マールはきょとんとした顔で首を傾げる。
「でも、お腹すくよ?」
あまりにも素朴で、当たり前の一言。
レティシアは、その場で言葉を失った。
「…………」
反論しようとして、何を言えばいいのか分からない。
危険だとか、常識だとか、そういう理屈は山ほどあるはずなのに――“お腹がすく”という事実を否定できる言葉が、どこにも見つからなかった。
「……あ」
小さな声とともに、マールが指をさした。その先、少し離れた木の根元近くに、赤黒い斑点模様の果実がいくつか揺れている。
「コブラ苺だな」
レグルスが即座に気づき、レティシアへ注意するように言った。
「触るな。枝から離れた瞬間に毒化が進む。皮膚に触れただけでも危険だ」
その言葉に、レティシアもぴくりと反応する。
――知っている。
街カルデサックでは、超がつくほどの高級食材。
取り扱えるのは専門の採取師だけ。一般人が森で見つけても、まず近づかない類の“毒苺”だ。
だが。その専門の採取師はここにいる。
「じゃあ、取るね!」
マールは、ためらいなく一歩踏み出した。
「え、ちょ――」
レティシアが声を上げるより早く、透明な結界が果実ごと、枝を包み込む。
空気がぱん、とわずかに震えた。枝についたままのコブラ苺は、完全に隔離された空間の中で静止していた。
「……」
レティシアは、思わず言葉を失う。
マールは結界の内側に手を差し込み、果実の付け根を小さな刃で切り落とした。枝から離れた瞬間、本来なら毒化が始まるはずの苺は――何の変化も起こさない。結界が、すべてを遮断していた。
そして次の瞬間。
マールは、そのまま苺を口に運んだ。
「もぐ……」
何事もなかったかのように、もぐもぐと咀嚼する。
「……え?」
レティシアの思考が、完全に止まった。
「ちょ、ちょっと……!?」
慌てて声を上げたが、マールは首を傾げるだけだ。
「だいじょうぶだよ」
あっさりとした声。
「枝から取る前に結界すれば、毒にならないんだよ」
あまりにも簡単そうに言うその理屈に、レティシアは頭を抱えそうになる。
――理屈としては、分かる。
だがそれを“即座に実行できる”ことが、そもそもおかしい。
「……信じられない」
呆然と呟くレティシアに、マールはにこっと笑い、もう一粒差し出した。
「レティシアちゃんも、食べる?」
「……っ」
一瞬の逡巡。
だが、ここまで来て拒む理由も見つからない。
――と思った、そのとき。
マールが、にゅっと距離を詰めてきた。
「はい、あーん」
「なっ……!?」
予想外の行動に、レティシアの思考が一瞬で停止する。
「ちょ、ちょっと! 自分で食べられるから!」
「……マールが触った苺じゃ、嫌?」
「そんなこと、ないけど……」
言い返せない。
マールは悪気ゼロの笑顔で、苺をそっと近づける。
「あーん」
「…………」
周囲の視線が、じわじわと集まってくる。
「……み、見ないでよ……」
小さく呻くように言って、レティシアは観念した。
ぱくり、と口を開く。
「……甘……」
思わず零れた声。
「……あれ?」
記憶と、舌の上の感覚が噛み合わない。
コブラ苺の味自体は知っている。カルデサックの街で、信じられない値段の皿に乗っていたそれを、確かに口にしたことがある。けれど――。
「……こんなに、果汁が……」
噛んだ瞬間に溢れる瑞々しさ。甘さの奥にある魔力の張りが、はっきりと感じ取れる。街で食べたものよりも、どこか濃く、鮮烈だった。
(魔の森で採れたてだから? それとも……)
理由は分からない。ただ、今この場所で食べているという事実が、味を一段引き上げている気がした。
レティシアは苺を見つめ、そしてマールを見る。
――採取が難しい希少な高級食材。
――それを、森で“おやつ”感覚で食べる幼女。
(本当にこの子は規格外すぎる……)
内心ではそんなことを言いつつ、レティシアはコブラ苺の幸せな余韻に浸っていた。その様子を見て、マールは満足そうに頷く。
「おいしいでしょ?」
「う、うるさい」
「もっと食べる?」
「……たべる」
そう言いながら、レティシアの耳は、はっきりと赤くなっていた。
――――――――――――
【ギルド受付・昼下がり】
「ねぇお姉さん。今日の仕事終わったら、軽く飲みに――」
「却下です」
即答。
カウンター越しに微笑む受付嬢は、誰がどう見ても美人だった。整った顔立ち、落ち着いた物腰、凛とした佇まい。――なお、心の中は別である。
(……はぁ。違うのよ)
(今日の昼、マールちゃんが持ってきてくれた“安全なコブラ苺”を使ったタルト……)
(外はさくっと、中はとろっと……魔力の余韻がまだ舌に……)
「ちょ、ちょっと待って! そんな冷たいこと言わずさ!」
「順番を守らない方との会話は、規約違反です」
にこやかに、しかし一切の余地なく撃墜。
傭兵は肩を落として去っていった。
(……まったく。私の想い人はただひとり)
まるで恋する乙女のように、ある人物をイメージする。
(マールちゃん……)
小さくて、ふわふわしていて、なのに平然と毒を無力化して、
「おいしいよ?」って首を傾げる、あの子。
(はぁ、可愛すぎて娘にしたい……)
一瞬で首を振る。
(……いや、娘は倫理的にまずい)
(でも将来有望だし、才能の塊だし、食の革命児だし)
(……いっそ、恋人に……?)
ぴたり。
(……ダメね。重症だわ、私)
それでも思ってしまう。
(近くじゃなくてもいい、せめて後方で見守ってあげたい)
受付嬢は、心の中で語りかける。
(あなたも……)
(私と同じように、あの子を“愛している”んですよね?)
(私には分かります。遠くから見守っている……それってもう、立派な“推し活”です)
表情は崩さず、でも声音だけ少し柔らかく。
「もし、よろしければ」
「一緒に、静かに応援していただけると……嬉しいです」
「★評価なども、していただけましたら……本当に、ありがたいですね」
――その瞬間。
「こらぁぁぁ!! お前また仕事中に変な妄想してるだろ!!」
背後から響く雷鳴のような声。
振り返ると、筋肉ムキムキのギルドマスターが腕を組んで立っていた。
「ひぃっ!?」
「し、失礼しました! 業務に戻ります!!」
受付嬢は即座に背筋を伸ばす。
(はぁ、今日もマールちゃん来てくれるかな……)
あわよくば、また新しいグルメ食材を持ってきてほしい。
そう心の中で願いながら、彼女は今日も完璧な笑顔でカウンターに立つのだった。




