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第25話 ころころ走る、結界トロッコ


 「まずは、実験からだな」


 レグルスのその一言で、話は決まった。



 ギルドから少し離れた屋外訓練場。普段は模擬戦や武器の調整に使われる場所だが、昼下がりの今は人影もなく、広い空き地には二人きりだった。


 マールはそわそわと周囲を見回し、ぴょこんと一歩前に出る。


「えっと……じゃあね、まず……」


 両手を胸の前でぎゅっと組み、目を閉じた。次の瞬間、空気がわずかに揺れ、形を持つ。


 地面から数指分浮いた位置に、透明な箱型の結界が現れた。厚手のガラスで作られたバスタブのような形状で、広さは大人が縦に二人並んで乗れるほどある。



「……滑らない、の」


 マールは小さく、しかしはっきりと説明した。


「前みたいに、地面にひいて、すべるんじゃなくて……乗る、もの」


 その言葉どおり、結界の四隅には結界で形作られた小さな車輪が備わっている。


 レグルスは腕を組んだまま、慎重に距離を詰めた。だが、次の一歩で足を止める。


「……発想は悪くないが、見えにくいな」

「うっ……たしかに……」


 存在はしている。だが、視界には映らない。

 使う側が把握していても、少し気を抜けば踏み外しかねない。


 マールは一瞬考え、それから顔を上げた。


「じゃあ、色をつけてみようかな」

「結界に色を、か。そんなこともできるのか?」

「うん! 見えたほうが、あぶなくないもんね!」


 再び目を閉じ、結界に意識を向ける。

 次に現れたそれは――さきほどとは別物だった。


 透明だったはずの結界は、はっきりとしたピンク色に染まっている。遠目からでも一瞬で分かる、目に残る色合いだ。



「……ずいぶん派手だな」


 思わずこぼれたレグルスの言葉に、マールがぱっと顔を上げる。


「かわいいでしょ?」


 迷いのない一言だった。

 レグルスは、そのピンク色の結界をもう一度見てから、何か言おうとして――結局、言葉を飲み込んだ。


 位置も高さも、一目で分かる。

 安全性という点では、否定のしようがなかった。


「……ああ。見やすい」


 それだけ告げて、視線を逸らす。

 マールは満足そうに、えへへ、と笑った。


 その笑顔のまま、くるりと結界トロッコのほうを振り返る。



「じゃあ、乗ろ?」


 あまりにも自然な一言だった。

 レグルスは、ぴたりと動きを止める。


「……いや、俺は見ているだけでいい」


 視線はトロッコではなく、訓練場の奥へ。なぜだか声も、いつもよりわずかに歯切れが悪かった。マールは首をかしげる。


「どうして?」


 即座に返ってきた問いに、レグルスは言葉を探す。


「いや、その……あえて俺が乗る必要もないだろう」


 自分でも苦しい言い訳だと分かっていた。マールはじっとレグルスの顔を見つめ、それから少し考えるように視線を泳がせる。やがて、にこっと笑った。


「だいじょうぶだよ」


 そう言って、一歩近づく。


「こわくないよ?」


 その言葉に、レグルスの肩がぴくりと揺れた。


(……いや、怖い)


 内心で即答する。


(俺は馬車が苦手だ)



 脳裏をよぎるのは、昔の記憶。


 若いころ、思いつきで自作した小舟を川に浮かべ、釣りでもしようとしたことがある。数分もしないうちに底板が外れ、水が入り込み、必死に岸へ泳いだ。


 溺れかけた、という言葉で片づけるには、十分すぎる恐怖だった。


(あのときからだ……揺れる乗り物は、どうにも駄目だ)


 だが、目の前の少女は――娘のような存在だ。怖い、などと言えるはずもない。



「そうだ、今から拠点に戻って、他の奴らに乗らせよう。うん、それがいい!」


 自分でも何を言っているのか分からないまま、誤魔化す。


 マールは、もう一歩踏み込んだ。小さな手で、レグルスの袖を引く。


「マールは、レグルスおじさんがいい」


 見上げてくる瞳に、計算は一切ない。

 レグルスは、完全に追い詰められた。


 数秒の沈黙のあと、観念したように息を吐く。



「わ、分かった! 分かったから!」


 そう答えた表情は、まるで戦場へ向かう直前の兵士のようだった。



 レグルスは一歩遅れて、結界トロッコの中へ足を踏み入れる。


 ガラスのバスタブを思わせる座面は、見た目に反してしっかりとした感触があった。先に腰を下ろしていたマールが、くるりと振り返る。


「ここ、座って」


 促されるまま、マールの後ろに腰を下ろす。ガラスの浴槽に父娘で浸かっているかのように、距離はひどく近い。



 レグルスはごく小さく息を吸い、腹をくくった。


 ――次の瞬間だった。

 何の前触れもなく、結界トロッコがころころと動き出す。


「――っ!?」


 反射的に、目をぎゅっと閉じる。

 揺れを想像し、衝撃を覚悟する。だが、身構えたほどの衝撃は来なかった。


 車輪状の結界輪が、静かな音もなく回転している。トロッコは地面を滑るのではなく、転がるように前へ進んでいた。それは以前、河豚カワブタを脱水した際に用いた回転結界と同じ原理だった。


 摩擦を消して滑る移動ではない。転がる感覚は穏やかで、挙動は驚くほど安定していた。



 ――それでも。

 レグルスの身体は正直だった。

 気づけば、隣のマールを強く抱き寄せている。


「い、いたいよ、レグルスおじさん!」


 抗議の声に、はっと我に返った。


「す、すまん……」


 慌てて腕の力を緩めるが、身体のこわばりまでは誤魔化せない。額にはじっとりと汗が滲み、背中も強張ったままだ。


 それでも、トロッコは淡々と進む。


 マールが思い描く「回す」という単純なイメージに従い、結界輪は一定のリズムで回り続け、ふらつきもなく進んでいる。しばらくすると回転が弱まり、トロッコは自然と減速する。


 やがて、すっと停止した。

 レグルスは、しばらくそのまま動けなかった。

 そして、恐る恐る目を開ける。

 訓練場の景色も何ひとつ変化していない。


 深く息を吸い込み、空を仰いだ。



「……無事、か?」


 自分でも、間の抜けた声だと分かっていた。

 マールは、にこにこと嬉しそうに頷く。


「うん!」


 レグルスは大きく息を吐き、額の汗を拭った。


(戦場より、よほど心臓に悪い……)


 内心で、心からそう思う。

 マールは、そんなレグルスを不思議そうに見上げた。


「……もしかして、こわかった?」


 問いかけに、レグルスは答えない。

 沈黙が、そのまま答えになっていた。


 マールは少しだけ声を和らげる。


「だいじょうぶ」


 そう言ってから、そっと続けた。


「マールが、おじさんのこと守るから」


 小さな手が、レグルスの服をきゅっと掴む。

 その感触に、レグルスは思わず小さく苦笑した。


 ――見た目は、いかつい元騎士の傭兵。

 だがその内側は、乗り物が少し怖い、不器用な保護者だった。


 そのギャップを知る者は、今のところ――この少女ただ一人である。




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