第22話 一方その頃③ ルシアン、ついに辺境伯家へ
アルマティア王国の南端。
凶暴な魔獣が跋扈する魔の森のすぐ外れに、辺境伯家の屋敷は建っている。
かつてこの屋敷は、王国の盾とまで呼ばれた家の象徴だった。魔の森に最も近く、最も危険な地を任されながらも、防衛拠点と兵を整え、秩序を保ち続けてきた名門。王家の縁者を預かる役目を与えられたのも、当然の評価だった。
――本来ならば、だ。
正門の前で馬を下りたルシアン・ヴェイルは、視線をゆっくりと屋敷全体に巡らせた。
建物は、一見すると普通だ。石造りの門も、白い外壁も、遠目には整って見える。屋根の洋瓦も揃い、門扉の装飾も欠けてはいなかった。
それでも。
(……おかしい)
正門前の植え込みは、やけに丁寧に刈り込まれている。
だが、そのすぐ脇――裏手へ続く小径に目を向ければ、草は伸び放題だった。踏み固められた形跡もなく、手入れが長く放置されていることが一目で分かる。
門をくぐり、屋敷の敷地内へ足を踏み入れる。
廊下の床は磨かれている。
しかし柱の彫刻には埃が残り、窓枠の隅には、いつからか分からない蜘蛛の巣が張り付いたままだった。
――人目につく場所だけ。
整えられているのは、そこだけだ。
ルシアンの胸に、じわりとした違和感が広がっていく。
正門を通ったにもかかわらず、出迎えは一切ない。
名乗らずに入ったとはいえ、鬼の仮面をつけた騎士が堂々と敷地内を歩いているのだ。本来なら、誰かが気づき、声をかけてくるはずだった。
鬼の仮面の奥で、ルシアンは小さく息を吐く。
(王命の使者を迎える屋敷とは……思えませんね)
そう内心で呟いた、そのときだった。
「ひっ……!」
甲高い悲鳴が、屋敷の奥から響いた。
扉が勢いよく開き、肥え太った女が姿を現す。
豪奢なドレスに身を包み、脂の乗った頬を引きつらせていた。
ヴァネッサ。
辺境伯家の正妻である。
その背後から、同じように贅肉をまとった娘が顔を出した。宝石をこれでもかと身につけたプリシラだった。
「な、何者ですの!?」
「盗賊!? それとも……魔人!?」
二人の視線は、ルシアンの鬼仮面と、腰に下げた剣に釘付けになっている。刃には、まだ完全には拭いきれない血の名残があった。
ルシアンは足を止め、ゆっくりと仮面に手をかけた。
――外す。
白銀の髪と、穏やかながらも芯を宿した眼差しが露わになる。
「失礼いたしました」
一歩下がり、無駄のない所作で一礼した。
「アルマティア王国近衛騎士団筆頭、ルシアン・ヴェイル。王命を受け、こちらへ参りました」
その名が告げられた瞬間。
ヴァネッサとプリシラの表情が、はっきりと変わった。
「あ……あら……!」
怯えは消え、代わりに浮かぶのは露骨な作り笑い。ヴァネッサは慌てて背筋を伸ばし、乱れた髪を整える。
「そ、そうでしたの……!」
プリシラもまた、さっと態度を改めた。
「ようこそ、辺境伯家へ」
声色まで変え、取り繕うように微笑む。
「王国からのご視察でしょうか?」
「ささ、どうぞ中へ」
先ほどまでの狼狽が、嘘だったかのような歓迎ぶりだった。その様子を静かに見つめながら、ルシアンは小さく頷く。
案内された応接間は、いかにも貴族の屋敷らしい造りだった。分厚い絨毯、彫刻の施されたテーブル、壁に飾られた絵画。一見すれば、裕福で、何不自由ない暮らしをしているように見える。
だが。
椅子の脚には細かな傷が残り、金縁の装飾はところどころ剥げている。絨毯の下からは、長く掃除されていない埃の匂いがわずかに立ち上った。
形だけは保たれている。
だが、丁寧に扱われているとは言い難い。
ルシアンは勧められるまま席に着き、形式通りに挨拶を交わした。天候の話。街道の魔獣被害。どれも中身のない、上っ面ばかりな貴族の会話ばかりだ。
頃合いを見て、ルシアンは静かに本題へ入った。
「三年前」
その一言で、空気がわずかに張りつめる。
「王家より、こちらの家へ一人の幼女が預けられたと記録にあります」
ヴァネッサとプリシラの視線が、同時に揺れた。
ほんの一瞬。
だが、ルシアンは見逃さない。
「その件について、確認に参りました」
一拍。
沈黙。
次の瞬間だった。
「……ああ、あの子?」
ヴァネッサが、鼻で笑った。
「もう死にましたわ」
「は、はい……?」
あまりにも軽い口調。冷静を保っていたルシアンもさすがに驚きを隠せない。
「随分とトロい子で、何をやらせてもダメでしたの。仕方なくメイドとして置いてあげていましたけれど……役に立つことは、ついぞありませんでしたわ」
ヴァネッサは肩をすくめ、さも当然のことのように続ける。
「ある日、ふらりと姿を消しましたの。魔の森の方へ向かったと聞いていますわ。止める間もなく」
プリシラが、くすりと笑って口を挟んだ。
「きっと、今頃は魔獣の腹の中でしょうね」
二人の声には、嘆きも後悔もない。
「もちろん私たちは、何もしていませんわ」
「勝手に出ていって、勝手に死んだだけ」
プリシラは顎に指を当て、軽い調子で言った。
「王国的にも、その方が都合がいいでしょう?」
「どうせ誰かの隠し子とかだものね、お母さま?」
まるで後片付けの話でもするかのように、二人は笑い合う。
「第一あの子、何の役にも立たなかったもの」
「食事を出しても無駄。どうせすぐ倒れるし」
ヴァネッサは指を折りながら語り始めた。
「掃除は遅いし、言いつけは守らないし」
「熱を出したこともあったけれど、医者なんて呼びませんでしたわ」
プリシラがくすくすと笑う。
「どうせ死にかけだったし。医者代がもったいないもの」
それらはすべて、
――罪の告白だった。
だが二人に、その自覚は一切ない。
ただの雑談。
軽い世間話。
その様子を前にして、
ルシアンの表情が、ゆっくりと変わっていく。
声を荒らげることはない。
怒号もない。
ただ。
穏やかだった眼差しから、感情がすっと引いていった。
それは、人としての情が消えたのではない。
――裁く側の目に、切り替わっただけだった。




