祈り
シンシャとの会見を終えた後、蓮瑛の心は高揚感に満たされていた。
再び龍の巫女としての役割を果たすだなんて、まるで夢のような出来事だった。シンシャが自分を見つめる眼差しを思い出し、思わず溜息が零れる。
王の眼差しには、深い情熱と期待が宿っていた。それは恋や愛とは異なる種類の情熱であり、彼の国への献身が息づいていた。
そしてそれを叶えることが出来るのは蓮瑛だけだと信じ、碧砂国の未来を輝かせたいと願う強い決意が滲み出ていたのだった。
これまで無能と呼ばれて来た蓮瑛にとって、これほど嬉しいことはない。
今すぐにでも祈りを捧げたいと願ったのだが、シンシャの提案は待ち遠しいものだった。
まだ少し体を休ませて、吉日を選んでから勤めを始めようと伝えられたのである。彼は蓮瑛の健康と力を最優先に考え、無理の無いように祈りを捧げる日を選ぼうとしたのだ。
けれども蓮瑛は自分を認めてくれた王の期待に応えたいという思いが強過ぎて、我慢が出来なかった。
夜が更けるにつれ、静寂が彼女の自室に広がる。就寝の為、部屋には蓮瑛以外の人間はいない。月明かりが窓から差し込み、部屋を柔らかな光で照らす。蓮瑛はその光の中で、祈りを捧げる為の時を選んだ。
緊張と期待が入り混じる心情を抱きながら、彼女は目を閉じ、深く祈りを捧げた。
「神龍よ。私に力を与えてください。私の力を通じて、碧砂国の未来を守り、豊かなものにしていくお手伝いをさせてください」
やがて、蓮瑛は祈りを終えると深い溜息を吐いた。それは長い間抱いていた重圧と不安が少し和らいだことのだと蓮瑛は自覚した。自室に広がる夜の静寂が、彼女の心を静かな安らぎで包み込むような錯覚に陥る。
不思議と満足感が彼女の心に満ちていくのを感じつつ、蓮瑛は夜に祈りを捧げる行為を、正式に神殿で祈りを始めるまで毎日行い続けた。
吉日――シンシャの案内に従い、蓮瑛は神殿に足を踏み入れた。
神殿の大きな扉は静かに開かれ、その奥にある広間は壮麗な装飾で彩られていた。高い天井には繊細な彫刻が施され、光がそこから差し込み、天井には神龍の姿が優美に描かれていた。
シンシャは蓮瑛を案内しながら、神殿の歴史や役割について語りかけた。碧砂国がかつて龍華国の一部であったこと、しかし砂漠化の進行によって、神龍の加護を失ったと断じられ、袂を分かったこと。そして、その歴史的な背景から、碧砂国の神が龍華国と同じ神龍であることが説明された。
蓮瑛はシンシャの言葉に耳を傾けつつ、神殿の内部を見渡していた。二つに分かたれた国が今も同じ神を崇めていることに、不思議な感覚が広がる。まるで蓮瑛がこの地にやって来ることが運命だったかのように。
「私達は同じ神を戴いていたのですね」
と蓮瑛が呟いた。その声は静謐な雰囲気に包まれながら、柔らかな響きを持って広がった。
祭壇の前に立つと、シンシャは蓮瑛に注意事項を伝える。
「蓮瑛、祈りを捧げる際に一つ注意して欲しいことがある。神龍への感謝の意を表すことはもちろん重要だが、くれぐれも願い事を言わないでくれ」
「……願い事を、言わないのですか?」
蓮瑛は戸惑った。龍華国では当たり前のように豊穣を願うように言われ続けて来たのだから。
「砂漠に水を供給し過ぎれば、逆に災害を引き起こしかねない。砂ばかりの土地だとしても、そこに住む動植物の均衡を乱してしまう恐れがあるのだ。だからこそ、神龍への感謝の念だけを捧げていただき欲しい」
そう告げられた瞬間、蓮瑛の顔色が一瞬にして蒼褪めた。彼女は既に自室で願い事を捧げてしまっていたからだ。
その表情を見てシンシャは一瞬焦りを覚えるが、二人の後ろについて神殿に入っていたランフォンが異常な報告を受けていないことを伝えてくれたことで、焦りは安堵へ変わる。
「わ、私、皆さんに良くしていただいたから、豊かになれば幸せだろうって……」
蓮瑛は自分の行動に対して申し訳無さを感じ、謝り続けた。そして彼女の心には、やはり自分が無能だったのではないかという思いが、脳裏を過り始める。過去の雨ばかりの日々が、彼女の自信を揺らがせる。
蓮瑛の不安を感じ取ったのか、シンシャは蓮瑛の肩を軽く叩いた。
「気にすることはない、蓮瑛。神龍は貴女の願いを聞き届けてくれるだろう。それに、もしかしたらまだ貴女の居場所を探し当てていないかもしれない。この広大な砂漠の中だ。神龍もちょっと道に迷っているのかもしれない」
『神龍が迷子』だなんて表現を蓮瑛は聞いたことがない。
けれど蓮瑛はシンシャの真面目な顔で口にした言葉に少しだけ笑顔を取り戻し、頷いた。彼の温かな励ましは、彼女の心に新たな勇気を注ぎ込んだ。
そして祭壇の前に静かに跪き、目を閉じ、深い呼吸を繰り返して心を整える。神龍への感謝の意を胸に秘めつつ、何も起こらなくても良い、ただ静かに祈りを捧げる――それが今の蓮瑛の心情だった。
「神龍よ。この広い砂漠の地で、この国をお守りくださり、心より感謝いたします」
蓮瑛の祈りによって特別なことが起きるということはなかった。静かな時間だけが流れる。もちろんシンシャが蓮瑛を責めることはない。
「素晴らしい祈りだった。貴女の誠実な心はきっと神龍に伝わっただろう」
蓮瑛は彼の言葉に安堵と喜びを感じ、少し恥ずかしそうに笑みを浮かべた。シンシャの優しい声と表情は、彼女にとって心の支えとなっていた。
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