-7sone 無功
塞がったはずの傷口が開いている。これで何度めだろう。昨夜から延々と意味のない駆け引きを繰り返している。
筧清高は限界を察し、a.m.-1の授業を抜けて保健室を頼った。
入る前から予測していたが、担当の保健医も、見習いの莉保も外出中らしい。貸切状態だ。
洗い場の鏡を見ると、溢れた血が袖に滲み出していた。
こういうときに限って黒い上着を洗濯している理由を知りたい。愛用していたグレーのコットンカーディガンが犠牲になってしまった。
室内の備品を使用するのも後ろめたく、諦めて奥のベッドへ向かう。
無事な左を下にして横になれば、シーツが赤い斑点だらけになったりはしないだろう。
疲弊した身体が寒気に揺られて失神寸前だ。
回復できるか不明なほど弱りきった自分が可笑しくて力が抜ける。
ベッドに収まり、無音の世界でマコトの存在を思い出した。
いつまで待っても彼は訪ねて来なかった。
親交が深まるにつれ、揃いの腕輪を嵌められるような重圧を感じ、発作的にマコトを遠ざけたくなったのも事実だ。
嫌っているのではなく、時が経つほどに突き放せなくなるのが怖かった。
マコトとの関係を巡る不安定な迷いが荒れた海を呼び寄せ、陸にいながら溺れる苦しさを振り払えない。
昨夜遅くに部屋を出て、森へ急いだ。
偶然の産物だが、樹木の合間にひっそりと絶えていた山小屋を見つけ、そこに主要な道具を隠してある。自分が関わった証拠を寮に持ち帰るわけにはいかない。
木々のざわめきが間近に迫る闇の中、フリーマーケットで入手したタブレットを、祈るような想いで瀕死のネットに繋ぐ。
微かにだが、山奥まで電波が届いていたことに感謝した。
犯人グループの車両に仕掛けた機器が移動経路を記録する。それを端末で辿り、現場となったエリアに見当をつけ、夜が明けないうちに足を運ぶ。
これまでに見つけ出した切断部位は、場所を示す暗視写真と動画に残し、そのまま動かさずに置いてきた。おそらく現在、詳細を知っているのは自分と犯人だけだ。
しかし遺棄された腕の行方が一向にわからない。走行中、崖下にでも投げ棄てたのか。そうなるともう、捜索は絶望的だ。
真っ二つにされた昨日の事件の半身は、古びた布に包まれ、森の中腹辺りの高木に括りつけられている。奴らは車から降りて付近を物色していたらしく、捜すのに酷く手間取った。
事後にしか動けず、通報の義務も放棄した自分はまるで、奇人小説に登場する証拠コレクターだ。
このやり方では誰も救えない。けれど、シティ・ユメイの警察をあてにできない以上、こうするしかなかった。何を疑われても構わない。
・
人の出入りがある場所で眠る気はなく、ポケットに突っ込んできた文庫本を開く。
しばらくすると、堕落したノックに続いて来訪者があった。
カーテンの隙間を横切った姿に緊張が走る。髪の色からしてマコトっぽい。このタイミングで出くわすとは思っていなかった。
彼は保健医か莉保が戻るまでここにいるつもりなのか、円い椅子に座って緩やかに回転している。病気や怪我ではなさそうだ。騒音のせいでメンタルが崩壊しかかっているのかもしれない。あるいは、ベッドルームを明け渡し、食事まで提供してきた相手から突然冷たくされて戸惑っているのだろうか。
自分とは回路の異なるマコトの心情を読み解きたかった。
あの夜、受け入れるというサインを出したのはこちらだ。
俺が悪かった、のひと言で関係を修復し、罪悪感を溶かすことができるかもしれないが、これをきっかけに距離を置くのが最良の選択だと信じた。こちらは一身上の都合で、近い未来に破滅する予定だ。マコトを死なせるわけにはいかない。
数分後、莉保が帰って来た。男の靴音とは違うのですぐにわかった。
「マコトくん? 久しぶりね。……部屋空けちゃってごめんなさい。レポートに使う資料探したくて図書室に」
親しげな口調だ。ふたりは以前からの知り合いなのか。
マコトから莉保の名を聞いたことは一度もなかった。
「どうしたの?」
「どうもしてないよ」
内容とは裏腹に、声のトーンが酷く落ち込んでいる。嫌な予感しかしない。
「元気ないみたいだけど」
マコトは側に来た莉保の身体に腕を回したようだ。ぬくもりを求めているのだろうが、心を半分預けたがっているようにも見える。
「朝起きたら体温なくなってた。一回死んじゃったんだと思う」
うっすらと笑い声が聞こえるので、莉保は仮死状態に陥ったマコトを可愛いと感じたらしい。
「大丈夫。普通に生きてるわよ。悪い夢でも見たの?」
「……夢だったらよかった。僕は誰からも必要とされてないんだな、って……」
もう何も言わないでくれと思った。直接責められるより辛い。
「ショックなことがあったのね。眠りたかったらベッドどうぞ」
「ありがと。でも、次ちょっとしたテストだから今度にするね」
そう告げて彼は席を立った。
「泣かなくて済むように手握って」
マコトは寂しがりな子どもだったのだろう。少年期の姿を半ば強制的に想像させられて複雑な心境だ。
昨夜、冷淡な態度をとってしまったことを多少は後悔しているからといって、今さら時間を巻き戻せない。
過ちをやり直せるのは、限られた物語の中だけだ。
・
マコトが退室して油断したのか、カーテンを開けられるまで莉保の接近に気づかなかった。
「またケガしてる……。顔色悪いけど平気? 男子の靴なのにきれいに揃ってたから筧くんだと思った」
彼女は、オリジナルの推理が当たったことで自信を得たのか、探偵風の表情だ。
傷に障らないよう、慎重に身体を起こす。
「ベッド借りてすみません」
いいのよ、と莉保は笑った。やさしさの透ける笑顔だ。首と頬の質感が澄んでいて、肌の表面が淡く光っている。
「何読んでたの?」彼女の瞳が文庫に向く。
内容にはさほど興味がなさそうだ。
「今度、筧くんがベッドで読書してるところ覗いてもいい?」
一瞬、思考が凍結する。
冗談ぽく笑いながら場を離れ、彼女は治療用のグッズが載ったトレイを抱えて戻って来た。
「どうしよう。小さいハサミ忘れちゃった」
恥ずかしそうに唇の端を上げ、囲いの外に出ていく。そしてすぐに再来した。
「早速始めましょう。……何か言っておきたいことはある?」
生存率が低めなのだろうか。不覚にも笑いそうになった。
そして、血だらけの上着を脱がされる瞬間、抱き締められると錯覚して身が竦んだ。
「大きな服。私、白衣の代わりにこういうの着てみようかな」
頷くと、横になるよう促され、先ほどと同じ体勢になった。
「少し滲みるかも」
消毒液で湿らせながら、血糊で貼りついた布地を剥がしていく。イメージしていたより器用で驚いた。
「これ、誰にやられたの?」
莉保が控えめに問いかけてくる。疑いもせず、いじめによるものだと断定したようだ。
彼女は自分に、失くした人の面影を重ねている。だから、たとえ短い間だとしても、与えられた役を静かに受け止める。
価値のない命に、ふたつしかない手を差し伸べてくれた彼女に何かを返したかった。
「すみません。不注意で……」
嘘ではない。山小屋への侵入時に窓ガラスの破片で負った傷だ。
「痛かったでしょ」
前触れもなく、莉保の手の平が耳の下辺りに触れた。
「お願い。生贄みたいに殺されたりしないで。そんなふうに死ぬくらいならずっとここにいて。筧くん。私ね……」
もう悲しい思いをしたくない。勝手な空想だけれど、彼女が呑み込んだ台詞を頭の中で繋いだ。
・
明け方、マコトがいない寂しさをベッドルームに押し込んだ。
ひとりでいると深刻になりすぎて、望まない暗闇にばかり沈んでしまう。
――いつかは終わる……。たぶん……。
指先に響く眠気をやり過ごせずに、鼻から緩く空気を吸う。
自分の意思に反して生きる意欲をほのめかすと、莉保は明るさを取り戻した。
「今ね、筧くんの傷口の上で脱脂綿が遊んでるの。楽しそうでしょ?」
ダメージ跡地で遊ばないでくださいなどと水を差したら大惨事だ。
「とても楽しそうですね」
綿に含まれた消毒液がかなり滲みるけれど。
彼女は血のついた脱脂綿をトレイの端にそっと置いた。
「この子たち、たくさん遊んで疲れちゃったみたい。筧くんにありがとうって」
莉保が不意に手を止めた。
「……泣いてるの?」
慰めるように、あたたかいものが頭の表面を滑っていく。無意識に唇を噛んだ。
「筧くんの髪触ると、子どもの頃のこと聞きたくなる。どんな男の子だったの?」
「よく憶えてません」
「恥ずかしがらないで教えて?」
マコトと同じ寂しがりな子どもだったと言えない。今も何も変わっていない。
目を閉じたまま、包帯が巻かれるのを待った。
一度でも眠ったら、この平和な囲いから出られなくなりそうだ。
陽が翳ると、グレーにも見える、白く区切られた世界。
先ほど読んだばかりの一説が、胸に細い棘を刺す。
――『わたしは本当に、自分の孤独が好きなのだろうか。』……。
-7sone end.