忘れないで
―episode 22: 忘れないで ―
最後の5、6段は蹴飛ばすように駆け上がり、海へ向かってせり出す高台の上に息急き切って到達した僕達は、目の前に広がる光景に思わず溜息を漏らした。
水平線を境に広がる、雲一つない蒼穹と、船一つない碧海。
加えて、目に映るのは手前に広がる青々とした緑。
鮮やかで爽やかな色彩が、視界を埋め尽くす。
小学校の時以来、久し振りに見た絶景に心が沸き立ち、海側にある落下防止用の柵から身を乗り出して下を覗き込むと、背筋が冷えるほどの高さに足が竦んだ。
慌てて身を退いて、隣で全く怖がりもせずに、長い身体を直角に折り曲げて下を眺めている翡翠に声を掛ける。
「解っているとは思うが、一応落ちないように気を付けろよ。この高さじゃ、落ちたらまず助からないからな。」
後半は、柵の端の方に立て掛けてある花を意識して言った。
まだ新しいところを見ると、誰かが亡くなられたばかりなのかもしれない。
事故にせよ自殺にせよ、ここから落下した時、恐怖が大部分を占めていたであろう誰かの心境を想像するに忍びなくて、哀悼の意を込めて手を合わせておいた。
「うん、ありがと…」
潮の香りを孕む風に髪を靡かせながら、翡翠は感情の読めない顔でそう答える。
その横顔を見て、やはり彼に昼の海は似合わないな、と思った。
この、僕の苦手な…いっそ暴力的なまでにバイタリティに溢れた美しさは、翡翠の、月が浮かぶ夜の海のように静謐な美しさとは相反するものだ。
どちらにせよ、僕からすれば手が届かないほど眩しい存在だということに変わりはないが。
「…凄いね。本当に美しいものを見ると言葉が出ないって、ほんとなんだ。」
翡翠がぽつり、と、放心気味に呟く。
「そうだね。…それに、この圧倒的な景色を見ると、些細な悩みなんて吹き飛んでしまうな。」
「うん…」
頷くと、そのまま海を見つめて黙り込んでしまう。
少し強い初夏の日差しを避けるように手を翳し、僕も視線を海に向けた。
風の音だけが、微かに耳に届くだけの静寂が訪れる。
「ここは…俺と君の色で一杯だね。」
不意に投げ掛けられた言葉に、トクン、と、胸が鳴る。
「……………そう、だな。」
じわじわと、温かい何かが胸に広がるのが解る。
たったその一言だけで、昼の海も悪くないと思ってしまった自分は余りに単純過ぎる、と思いつつも、頬が緩みそうになるのを何とか堪え、風に舞う髪を押さえて顔を上げた。
そして、
こちらを向く翡翠と目が合って、
浮ついた気分が、凍り付いた。
「あぁ………」
物憂げな溜息と共に、僕と向き合っている、深い翠の瞳が、僅かに細められた。
「…良かった………」
――君とまた、ここに来られて…
そう、掠れた声を発する彼を、
僕は茫然と見つめる。
「翡翠………」
その名で呼ぶのが正しくないだろうと解っていて、それでもどこか目の前の現実を信じ切れていない自分がそう呼ぶと、彼は哀しそうに目を伏せた。
「違う、僕は翡翠じゃない。……僕のこと、忘れたの?」
「……っ」
「何、覚えてるけど信じられない?…それともやっぱり、僕のことは忘れてしまった?」
質問の意味が解らずに黙っていると、彼は困ったように笑った。
「…それとも、僕と話すのは嫌?」
翡翠と同じ顔で、翡翠とは違う口調で話す彼に一抹の怖れを抱き、一歩後退ると、それ以上の歩幅で詰め寄られ、腕を引かれた。
「そっちに余り近付くな。前にも危ないと言ったろ?」
恐怖から反射的に腕を振り解き、もう一歩後退ろうとして、何かに躓いて尻餅をついた。
「…………僕が怖い?」
今にも泣き出しそうな顔で僕を見下ろして、彼は僕にそう訊ねる。
その悲痛な表情に罪悪感を掻き立てられつつも、それには答えずに僕は口を開いた。
「君は、誰だ………?」
『誰』か、と問うて、その訊き方では不適切だと思い直す。
「いや、『誰』じゃない。君は『何』だ?翡翠の別の人格か?それならば何故、僕を知っている?」
「それに答えるつもりはない。」
きっぱりと言い切った後、数秒の沈黙が訪れる。
「そうか、やはり覚えていない、か……」
また数秒の沈黙。
「先日あの学校で久し振りに君に会った時からそんな気はしていたんだけれど…こうして現実に君の態度を見るまで諦められなかった。」
「…待て、僕が君と会ったのは昨日が初めてじゃないのか?」
怖れよりも罪悪感よりも、不可解な発言を疑問に思う気持ちが勝って訊ねると、彼は軽く頷いた。
「その認識で間違いないよ。ただ、僕は『翡翠』と全ての意識を共有しているから、君が『翡翠』に対してどんな応対をしているかは全部知っていると思ってくれたら良い。」
「でも、昼間、カフェで君と話した記憶は、翡翠にはなかっただろ?ということは、君の意識は…翡翠は共有していないのか?」
「それに関しては、僕からは説明が難しいな。……ある程度は共有しているはずだけれど、『僕』の自我が色濃く表面化すればするほど、『翡翠』の意識は薄れるようなんだ。だから、あの時みたいに僕が完全に顕現すると、『翡翠』の方の意識はなくなってしまう。」
「じゃあ、今も…?」
「そうだね。『翡翠』には眠ってもらってる。僕と紫杏の会話を聞かれると困るからさ。」
「何で、困るの…?」
その質問に、彼は初めて迷うような素振りを見せた。
「………言えない。」
固い表情に、聞き出すのは無理そうだと判断した。
無意識に吐きそうになった溜息を呑み込んで、代わりに忠告をする。
「…意識を共有しているなら知ってるだろうけど、翡翠が…昼間や今のように意識がなくなることを、とても不安がっている。翡翠に聞かれて困るのは解ったけど、こんなことを繰り返すのは逆に不味いんじゃないか?」
「………解ってる。…こういうやり方は、もうしないよ。僕を覚えていない君と話しても、辛いだけだからね。君にとっても、その方が良いだろうし。」
嫌味にも皮肉にも聞こえないようなトーンで言われたことで、逆に罪悪感が増す。
彼は、存在こそ謎だが、彼が僕に対して向ける感情は決してマイナスなものではなく、むしろ案じるような、慈しむような…家族に向けるようなものにも近い温かさを孕んでいる。
それ故、こうして怯えたり警戒している僕の方が、間違っている気がしてしまうのだ。
「あの…」
彼の正体が何であれ、せめて名前だけでも聞いておけば、何かしら彼にまつわることを思い出すきっかけになるかもしれないと思い、躊躇いながらも口を開く決意をしたところで、彼は僕の前に膝をついた。
「でも、これだけは言っておくよ。」
深緑の瞳が、一旦伏せられて、また僕へ真っ直ぐに向けられる。
「紫杏は、李杏に何一つ劣らない。」
はっ、と目を見開いた僕の頭を自分の方へ引き寄せると、額に唇で軽く触れた。
前髪越しに、仄かに熱が伝わる。
「僕のことは忘れていても良い。他の何を忘れても良いから、」
彼の吐息が、僕の耳朶をくすぐる。
「それだけは、忘れないでいて。」
そこまで言ったところで、翡翠と入れ替わって力を失った彼の身体が僕の方に倒れ込んできた。
後ろに手を付くが支えきれず、彼を片手で抱えたまま、出来るだけ勢いを殺して地面に転がる。
まだ意識の戻らない翡翠の下で、僕は先程の彼の言葉を反芻していた。
ふと、耳の方に何だか不快感を感じて、指で触れて初めて自分が涙を流していたことに気が付く。
それに気が付いたら後から後から涙が溢れ出してきて、拭っても拭っても止まらない。
落ち着くために深呼吸しようとして、上手く息が吸えずにひゅう、と気管が鳴る。
何故自分が泣いているのか、何がこんなに苦しいと感じているのか、今胸の中をぐちゃぐちゃに駆け巡っているこの感情は何なのか、何も解らずに嗚咽だけが漏れる。
痛い。痛い。痛い。
荒れ狂う激情は僕の心に血を流させる。
溺れる者が藁に縋るように、胸元に横たわる温かな翡翠の頭を掻き抱いて、僕はただ僕の気が済むのを待っていた―――…
【Continued.】




