悶々
―episode 23: 悶々 ―
翡翠のたっての希望で最後に向かったのは、僕が歌を練習するためによく独りで通っている、有名なカラオケチェーン店だった。
顔見知りの女性店員が、僕を見て親しげな笑みを浮かべた後、後ろに続いて入ってきた翡翠を見て少し驚いた顔をする。
「御予約の立花様ですね。お部屋御用意出来ておりますので、こちらにお名前等御記入お願い致します。」
僕がペンを取ろうとすると、翡翠が先に取って微笑んだ。
「……俺の勝ち。」
「何の勝負だよ。」
子供っぽい台詞に吹き出した後、何故か店員さんが生暖かい目で僕達を見ているのに気付き、恥ずかしくなって翡翠の後ろに隠れた。
「はい、ありがとうございます。お部屋二階の206号室です。」
ごゆっくりどうぞ、と頭を下げる彼女から逃げるように、急いで翡翠の手を引いて階段へと向かった。
ソファーに腰を下ろし、羽織っていたジャケットから腕を抜くと、ハンガーを持って待機していた翡翠が手を差し出してきた。
「……それぐらい、自分で出来る。」
「いいから、はい、貸して。」
無言の応酬の後、僕が耐えきれずに目を逸らしたことで、翡翠にジャケットが奪われた。
「ドリンク何が良い?紅茶?」
「…いや、お茶が良い。」
「じゃあ、取ってくるから先に曲考えててよ。」
僕が頷くと、翡翠は着ていたカーディガンを僕の膝に掛け、部屋を出て行った。
扉が閉まった瞬間、机に突っ伏して長い溜息を吐く。
「はぁぁぁぁぁ――――――………」
何故こんな辛気臭い溜息を吐いているかというと…
翡翠が悪い。
いや、正確に言うと悪いのは『翡翠』の方ではないが。
海での一件…―主に額に口付けられた件―以来、まともに翡翠の顔が見れていない。
少し目が合っただけで、僕の心拍数は急上昇してしまう。
その所為でいつものペースが乱されて、翡翠に甲斐甲斐しく世話を焼かれても断れずにいる。
そもそも、今日の翡翠は僕を甘やかし過ぎだ。
心底そう思う。
何かにつけ、僕が困らないよう、喜ぶように先手を打って行動されている。
君は僕の執事か、と問いたくなるような、一々さり気ない気の回し方に、少し背中がむず痒くなるような心持ちがする。
今だって、きっと僕のスカートが短い(といっても膝丈だが)のを気にして、カーディガンを掛けてくれたんだろうけど…
幼少期から考えても、僕がある程度深い親交を持った男性と言えば、父、兄、それにナキとユキくらいしかいないので、一概に僕の常識で判断するのは心配だが、それにしたって…彼女でも血縁でもない女に、翡翠のように細々とした気遣いをする人は、世間広しと雖もそういないんじゃないだろうか。
兄はかなり翡翠に近いところがあるが、それは妹に対してだけだし、ナキやユキを含め同世代の人間では、翡翠のような奴を見たことがない。
また、もう一つ、翡翠に僕がペースを乱される要因として、距離感が近いというのがある。
顔を覗き込んだり、軽々しく頭を撫でたり、
さっきだって……
【Continued.】




