神奈備隧道
──真夜中の帰宅になってしまった。
仕事仲間と飲みに出掛けた帰り道、俺は自分の浅はかさを悔やんでいた。
久方ぶりであった為、調子に乗って幾つもの店を梯子し、うっかり終電を逃してしまったのだ。
仕事場から若干遠い所に住んでいる俺は、近場に住む他の仲間たちと別れ、一人徒歩で歩いて帰る羽目となった。
当然ながら辺りはすっかり暗い上、今自分がいるのは殆ど人の通らない道であるが故に街灯もない。
その上山道だから、片一方は崖な訳で。
ガードレールもろくにないから、一歩誤れば死ねる場所な訳だ。
まして酔いが回っているから、一層気を付けなければならない。
…タクシーなんて乗れるような御身分ならば、このような思いもせずに済むのだが。
冬間近の風が吹き荒び、身を震わせながらそんなことを思う。
蛇の体のような曲がりくねった山道を幾らかの時間進むと、やがて見えてくるものがあった。
それはトンネル…もう随分と使われていないらしい隧道だった。
暗闇に幾分目が慣れた今でさえ、それは真っ黒な口を開いている。
俺は一瞬、そこに入るべきか迷う。
方向だけを頼りにしてここまで来たが、果たしてこの先が目的地に続いているかどうか。
全然違うところに続くのではないか、という懸念がないわけではない。
でも、とりあえずこの身を切るような風をしばし凌げる、という利点もある。
何より傾斜のきつい山道を当てもなく進むよりは、楽かもしれない。
そう思い至った俺は、そそくさとその隧道の中に入り込んだ。
──そこは、恐らく明治期だか大正期だかに建てられたらしい古いものだった。
内部に明かりなんて気の効いたものはなく、やはり暗い。
壁に手を当て、足元に注意を払い、道を確かめながら一歩ずつ歩んでいく。
けれども、ある程度進んでも相変わらず内部は暗いままだった。
期待している出口から射し込むだろう、僅かばかりの月明かりがまるで見えてこないのだ。
(まさか、この先行き止まりじゃあるまいな。)
そんな不安が俺を駆り立て始めた。
自分の足音が反響して、何だか他にも人がいるかのような不気味な雰囲気を醸し出す。
幽霊だのなんだのと言った類いの話は別段信じてはいないが…それでもやはり、恐いものだ。
暗闇というのは、人間の恐怖を増幅させる一番の要因らしい。
最も頼りになる筈の視覚が、全く頼りにならないからだろう。
万一危機が迫ったとしても、気づけないのはやはり心配だった。
熊だの野犬だの、そういう動物がねぐらにしていない、とも言い切れない。
…そんな、緊張と警戒で張り詰めた空気の中で、突如として背後から声を掛けられれば、誰だって飛び上がるほどに驚くだろう。
『あいや、驚かせて申し訳ない。珍しくも人がいた故、ついつい声を掛けてしまった。』
幾分低い、恐らく男であろう声の主が俺にそう謝った。
腰を抜かしそうになっていた俺は、隧道の壁に手を付いて何とか姿勢を保っていた。
まさかこんな夜更けに、そしてこんな廃道に他にも人がいるなんて、思いもよらなったが故の驚きぶりだ。
「い、いえ。此方こそ変に驚いてしまってすみません。まさか人がいるとは、思っていなかったので。」
とりあえず、そう敬語で返す。
すると、また暗闇の向こう側から声が聞こえてきた。
『いやはや。ではお互い様という事で…。ところで、暫しの道中、同道願いたいのだが。宜しいか。』
それは、此方としても願っていないことだった。
兎角寂しい思いをしていたところだったので、俺はそれに同意した。
まあ相手の顔が見えないという少しばかりの不安があるが…。
まさか闇を挟んで化け物と話をしている訳でもあるまい。
「しかし、すっかり寒くなりましたね。こうやって徒歩で移動しなければならないときは、風が身を切る様で堪りませんよ。」
供になって十数程歩みを進めたところで、俺はそう話しかける。
『もう11月も近ければ、これくらいの寒さにはなるだろう。まぁ、確かに今の私には、この寒風は堪えるが…。』
何やら訳ありげに、相手はそう呟いた。
「…何か懸念事でも?」
『そう言う訳でも…いや、そう言う訳なのかな。どうにも、憂えていることがあるのだ。』
「憂い事…。」
『…少し聞きたいのだが、最近の者は、他者の胸を抉るような真似を平気でするものなのか?』
そのぽっかりと穴の空いたような胸に冬の風が吹き込むと、酷く沁みるのだと彼は嘆く。
どうやら相手の人は、俺より幾分か年長者であるらしい。
恐らくどこかの会社の、係長か課長か。
その話ぶりから、年若い部下にでも苦労させられている、と。
そんな厳しい立場であるから、冬の寒さがより沁みるらしい。
「まぁ…“物質的には豊かになったが、精神的には貧しい時代になった”と嘆かれて幾分経ちますからね。最近の子は、そういうもんなんじゃないですか。」
俺も心当たりの無いことではない。
後輩に困った性格のやつはいるし、苦労もしている。
その嘆きも、幾分かは解るというものだ。
『…抉っておいて知らん顔をするほどに、か?』
………。
なんとも酷い仕打ちだなそれは。
流石にそれはもう苛めであろう。
想像した以上に彼は、哀しい立場にあるらしい。
『私の胸を抉った事については、水に流してやった。無視を決め込んだ事にも、ずっと耐えてきた。…それなのに、それなのに、だ。流石にこの仕打ちはあんまりではないか、と最近常々思うのだよ。』
「…ああ、なるほど。それはきっと貴方にも非がありますよ。」
『何故だ?』
若干の憤懣を含んだ声が聞こえた。
彼にすれば理不尽極まりない状況だろう。
けれども、それに対しての彼の行動は、実に不味い。
「そういう奴は、相手が無抵抗だと知ると更に図に乗ります。貴方の対処も悪かったんですよ。」
『…なら、私の怒気の片鱗でも見せればよかったと?』
「端的に言えばそうですね。」
『しかし私は手荒な真似は極力したくないのだが…。』
「事無かれ主義は時代遅れですよ。時には力に頼る事も知るべきです。そんなんじゃあ、いつまでも損をするのは貴方ですよ?」
あまりに憐れな身の上に、多少の同情の感を抱いて、俺は念を押す様にしてそう助言をした。
自分が我慢をすれば良いだのという自己犠牲の精神は立派だとは思うが、それは結局相手のためにもならないだろう。
相手の間違いを是正する為にも、その間違いを指摘する必要はある。
そう伝えると、その男性は成程…と呟き、ではそうするとしよう、と俺の意見に賛同をした。
具体的な解決法については何も語ってはいないが、まあそこは本人の考えるべき事だろう。
──そう、思ったときだった。
「でもやっぱり、力ずくっていう解決法は如何なものかと思いますがね。」
再び不意に声がした。
背後から、今度は女の声だ。
流石に今はさっきほどには驚かなかったが、内心かなり、どきりとした。
「気が進まないなら、やめておいた方が良いです。特に実力行使ってえのは、取り返しがつきませんからね。後悔しても遅い、なんて事もあり得る。」
その声の主は、更に続けた。
俺の主張とは逆の主張を、言い聞かせるように彼に告げる。
『なら、また私には耐えろと言うのか?』
誰だ、とは問わずに、男性が尋ねた。
「いや、それがですね。手っ取り早く言いますとね、貴方が言う、貴方を無視してきた人達からの依頼で私が遣わされたんですよ。…もし今、貴方に彼等が謝ると言ったら、貴方は彼等を赦しますかね?」
『………そこは、条件による。』
暫しの間を挟んでから彼は答えた。
些か俺の言葉に影響されたのかは知らないが、彼は用心深かった。
そう答えた後は、ただ口をつぐむ。
「無論、条件も提示してますよ。…とりあえず、この廃隧道の早期埋め立て。そしてこの山にある社への謝罪の意を込めての、供物。それでどうです?今までの御無礼を赦してはくれませんか。」
俺は彼女の提案に首を捻る。
一体、この女性は急に出てきて何をいっているのか。
それのどこが謝罪になるのか、さっぱり解らない。
そのとき、ふと私は前方に光を見た。
この長い隧道の、終わりが見えてきたのだ。
『…成程。それなら私も異議はない。その謝罪、受け入れるとしよう。』
「は?」
予想外の答えに、俺は素っ頓狂な声を出す。
いやいや、なんでそれで許せるんだ。
もしかして俺の想像とは違う状況が、彼を纏っているのか?
俺は勘違いをしたままに、彼に助言をしていたのか?
混乱が俺を襲い、訳が解らなくなる。
すると、そんな俺を置いて、男性が満足したように言葉を発した。
『…有難うよ、お二方。こんな愚痴何ぞに付き合ってくれて。…これで私もようやっと、安心できると言うものだ。』
その声が聞こえたと同時に、廃隧道は途切れる。
冬の空、酷く澄んだ空気の中で、眩いほどの月明かりが降り注ぐ。
そこに立っていたのは、俺ともう一人の女性。
予想外に顔立ちの整った、綺麗な女性だった。
「あれ…もう一人の人は?」
「もう帰りましたよ。自分のあるべきところにね。」
懐から煙管を取りだし、こなれた手つきで火を着けて彼女は一煙吸う。
帰ったって…まさか隧道の来た道を戻ってったということか?
「いや、そういうわけでは無くてですね。まァ貴方がそう言うものを信じる質かは知らないが…今の声は、人ならざる者の声ということです。」
人ならざるもの。
つまりは、異形。
あの彼が、それであったと。
そう思った瞬間、どっと冷や汗が体から噴き出す。
まさか、この隧道の全行程の殆どを、そんな得体の知れないものと一緒に過ごしていたと言うのか?
「まあ、とは言っても、幾らか格式の高い存在ですがね。」
「格式…?」
「カミサマですよ、カミサマ。古来より奉られてきた、この山の神様です。」
顎で指し示すようにして、彼女は隧道の通る山を見た。
「神様…。」
「古来より国土の殆どを山が占める日本では、自然と山岳信仰が発達してきました。そして神の依代となっている山の事を神奈備と言い、神域としていたそうです。その証拠に世界では紀元前から隧道があるが、日本のそれは、総じて若い。それはご神体たる山腹に穴を開ける何てのは畏れ多い、という理屈からでしてね。」
その代わりとして、日本では峠が発達したのだと彼女は言う。
所謂五街道のことで、峠が日本の交通流通の要となった。
「だが、信仰が薄れ西洋からの技術が流入してきた明治期辺りから、各地に隧道が作られたんです。これも、そんな最初期のものでしてね。老朽化や別道の開通から、すっかり廃道になってたらしいですが…。」
そこで俺は漸く、あの声の言葉の意味を理解する。
きっと、“胸を抉る”というのは山体に開けられた隧道の事だったのだ。
それでいて“知らん顔”をするというのは、廃道となってもそのままに放置する、という事だったのだ。
「夜な夜なここを通ると、誰もいないのに声が聞こえると噂になってましてね。それでまあ、何とかしてほしいと私の方に依頼が来てたのですが…しかし、今宵来てみて驚きましたよ。先客がいるとおもったら、貴方は実力行使をした方が良いと助言していたんですから。」
「…もし、その山の神とやらが実力行使してたとしたら、どうなっていました?」
「まあ、十中八九祟りでしょうな。麓の町辺りで怪我人はおろか死人が出てた可能性もあります。」
再び、嫌な汗が背中を伝った。
彼女が来なければ、あの神は俺の言葉通りに力に頼り、人を殺していた可能性があった。
殺人教唆と言って良いのかは知らないが…それに近い事になっていただろう。
俺は頭を下げ、彼女に礼を言う。
「いや、事情を知らなかったんなら仕方ありませんよ。結果的には丸く収まりましたし、話の解る相手であったというのも、幸いでした。…それに、なんだかあべこべな会話を聞けて面白かったですしね。」
責めるでもなく、子供のような笑みを浮かべ、彼女は笑った。
思い返せば確かに滑稽なやり取りに、俺も苦笑いをするしかなかった。
「まあ、私は仕事が終わりましたのでこれで帰りますが…貴方はまだ家まで遠いのですか?夜は異形の跋扈する世界。道中、彼らに誑かされたりしないよう、呉々もご用心を。」
そうとだけ言い残して、女性は闇の中に消えていく。
その言葉に従い、俺も先に進もうと前を向くと、眼下には点在する光が幾つも広がっていた。
それは、俺の住む町の光だった。
この隧道は、そのすぐ傍らまで伸びていてくれたのだ。
急いで戻ろう。また、別の世界の住人に出くわす前に。
そう思い、早足で隧道から離れる。
そこから幾らか進んでまた振り替えると、遠くにあの隧道のある山の全容が見えた。
標高は高いとは言えないが、どっしりと構えた威圧感のある山だ。
自分達の先祖が御神体として崇めたくなる気持ちも、分からなくはない。
それに向かっても深く頭を下げた後、町へと続く道に沿い、人の住む世界へと俺は戻っていった。




