水蛇
砂を、踏みしめる。
きゅっ、という音がして、少し足が沈む。
サンダルを履いている私の足は、忽ち砂にまみれた。
「近場に、こんな綺麗なところがあったんですね。私、知りませんでした!」
夕がそう嬉しそうにはしゃぎながら言った。
今私たちが来ているのは、近くにある砂浜だ。
海中から幾本かの巨岩が顔をだし、その肌には木や草が繁る。
古人が極楽浄土の如しと感嘆したと言われる程の景勝が、目の前にあった。
それほどの場所なのに人が存外少ないのは、夏がほぼ終わったせいなのだろう。
「なあ、ここ泳げるのか?」
突如そんなことを聞いてきたのは和男だった。
「そりゃあまあ、一応海水浴場だからな。」
「ほお、そうかそうか。そりゃあよかった。」
何か持ってるかと思ったら、水着だったのか。
八月末の、寒流の海を泳ごうと思うその神経の図太さには頭が下がる。
「東北の海はお盆を過ぎると足引っ張られるらしいぞ。泳ぐんなら、気を付けるんだな。」
当て付けにそう言ってやると、和男は露骨に嫌そうな顔をした。
「お前がそれ言うと、冗談にならねえよ…。」
気持ちが萎えたのか、水着の入ったバッグを足元に置くとちょこんと体育座りに座る。
でかい図体の割りに、その姿はやけに小さく見えた。
風情を解さない和男をほっぽり、私は煙管を片手に波打ち際に沿って歩いていく。
波に掻き消されかけている小さな足跡は、夕のものなのだろう。
目でそれを追うと、随分遠くまで続いていた。
夏休みの最後の思い出に、と来てみたが、とても喜んでくれたみたいだった。
許されるなら、もっと遠出をさせたいものなのだが…と私はため息をつく。
「宮比さん、変なのありましたけど!これ何なんでしょう!?」
そう言って戻ってきた夕の掌には、ゼリー状の御椀のようなものが乗っかっていた。
どう見たって、海月である。
そのことを教えてやると、悲鳴を上げながらそれを海へ投げ入れた。
少し遠くに水柱が立ち、海月は海中へ沈んでいく。
私も小さい頃は祖父とここへ来て、同じようなやり取りをしていた気がする。
あの時の祖父の立場に自分がなったことを思うと、時の流れを感じずにはいられない。
時刻は丁度、黄昏時。
そんな昔の事を思い出し、黄昏ていた時だった。
「あ、あれは…。」
また何かを見つけたのか、夕が声を出した。
巨岩の合間から見える水平線を指差して、私に尋ねてくる。
「宮比さん、じゃああれは何なんでしょう?」
その先を見ると、水平線上にぼんやりとした白みがかった帯のようなものが、延々と続いている。
そして、そこに一つの眩い光源があった。
太陽かと見紛うほどの強い光。
それが何かを覚った瞬間、自然と私は舌打ちをした。
「“水蛇”のやつ、海上に出てやがったのか…。そういや今年は空梅雨だったな。」
今年の東北は水不足に苛まれた。
それならあいつが海上に出るのも当然か、と私は一人で納得する。
しかし当然夕はそんな事情は解らない訳であり、私の言動にただ首を捻る。
「スイダってなんですか?」
何時ものように、そう聞いてくる夕。
それに対して、私も何時ものように、なるべく丁寧に説明を始める。
「“水蛇”はその名の通り、水の蛇だ。体のほぼ十割が、水で出来ていると言われている。ただその実、姿は蛇というより無顎類八ツ目鰻…いや、口元が鯉のぼりに似ていると思えばいい。」
「?…鯉のぼり、ですか。」
「そうだ。それで水蛇は本来、山の水源地に住んでいてな。姿とその事から、水神と崇められることもある。」
「山に住んでるのに、何であんなところに?」
「今年の猛暑と水不足で、住処が枯れ欠けたんだろうな。そうなると水蛇は川の流れに乗って山を降り、海まで行くのさ。」
「なるほど、そうすれば水も沢山有りますからね!」
「そう言うことだ。ただ、それで何をするか、というと、自身を気化させるんだな彼奴は。」
え?といった風の顔をする夕。
ほぼ水の体を持つと言うなら、九割方水の海月がいるから解る。
ただ、体を気体にする、というのは実例が無いから、俄には信じがたい。
私も初めてこの話を聞いたときそう思ったから、夕の考えが手に取るように解った。
「気体の体を持つってのは、他に例がない訳じゃないぞ。有名どころでは、煙羅煙羅とかがそうだな。」
「煙羅煙羅?」
「煙々羅ともいう、煙の妖怪だ。煙に人の顔が浮かび上がったような姿で描かれる。」
「へえ…改めて妖怪って何でもありなんですね。」
そう。
そうであるが故に、多くの人々から認められず、日本人の心から消えていったもの。
理論的に説明のつかないと言うだけで、存在を消された者達。
人が知れているこの世の事など、ほんの僅かでしかないのに。
不可解な事があっても良いじゃないか、と私は常々思う。
「それで、気体の体になってどうするんですか?」
「ん?ああ、ここで少し地理的な話になるが…岩手沿岸を流れる海流は、北から来る寒流、親潮ってのは知ってるか?」
「えーっと、知りませんけど大丈夫です。」
一体何が大丈夫だというのか。
とは言え詳しく説明しても多分無駄であろうから、余計なところは省き、肝だけを軽く話す。
「親潮はな、北から流れるから水温が低いんだ。するとその親潮に触れた空気は冷やされ、そこに霧が発生するんだが…気化した水蛇はそれを取り込み、大きくなるんだ。因みに海水をそのままではなく、わざわざ霧を取り込む理由は塩水を嫌うから、と言われている。」
「霧って言うと、なんだか霧衣半裂みたいですね。」
友達の長束さん達から聞いたのだろう妖怪の名前を口にする。
あの時は予想通り、後から色々とごねられたものだ。
日本海側に行ってしまったから来年まで戻らないと言ったら、来年には見せろと約束させられたのは、また別の話。
「まあ、霧という共通点はあるが特に接点はない。この二つの大妖は不仲とかいう話が有るにはあるがな。それはさておき、そこで出てくるのがあの水平線に広がる白い帯だ。実はあれが気化した水蛇の体なんだな。」
それを聞いた夕は、目を丸くした。
「えっ!?あのながーいのがですか!?」
「そうだ。親潮に沿って霧を取り込んでいく内に、奴の体は彼処まで大きくなるのさ。本来は普通の蛇位なんだがな。…親潮ってのは魚を育てる程栄養に富んでいる事から付けられた名前だが、水蛇にとっても“親”な訳だ。」
「でも、そんなに霧を取り込んでどうするんですか?」
「粗方霧を取り込むと、奴はまた自分の住処へ帰る。そしてその取り込んだ水分を使って、水不足を乗りきるのさ。」
妖怪と称される者達も、その実態はさして普通の生き物と変わらない。
生きるために様々な手段を講じているだけなのだ。
ただ、それが科学で説明がつかないだけで…。
「じゃあ、言うなればあれは水蛇の食事風景って訳ですね。」
極限なまでに要約して夕は納得した。
この子にはそれくらいでいいのかもしれない。
「でも…それなのに宮比さんは何故舌打ちをしたんですか?」
頭が残念な割りに、こう言うところは鋭い。
そこは、素直に認めよう。
「ああ…いやな、彼奴はどうも、好かんのだ。」
「何か悪さするんですか?」
「いや…特にはしない。沖に出た漁師の舟を沈めた話は幾つか伝わってるが、それは漁師側が水蛇に手を出したが故のものだし…。」
「それなのに嫌うって言うのは、可哀想ですよ。理由もなしに嫌うなんて、宮比さんらしくないですよ?」
そういって見つめてきた夕の瞳に光が映る。
それは、水蛇の気状の体が反射した太陽の光だった。
その生物である気体故か、独特の体をもつ水蛇の肌は光をよく反射するのだ。
その為、ああいう形態を取ったとき、時間帯によっては太陽が二つあるような現象が起こる。
私は夕の瞳から目を反らし、煙管を咥える。
確かに私には、自分の好き嫌いで妖怪を差別するなんてことは、柄じゃない。
だが、水蛇は──、いや、ああして水平線に帯のように重なる姿の水蛇だけは、どうにも好きになれないのだ。
(ただ彼奴のあの姿が、日出づる国たる日本には、途轍もなく縁起が悪く思えて仕方無いんだ──。)
別に、それが凶兆であるという伝承もない。
この景色一つで国運が下がる何てこともない。
そう、全ては私の思い過ごしでしかないのだ。
となるとやはり、悪いのは私なんだろう。
煙管をふかし、東に沈み行く仮初めの太陽を眺めながら、私はそう思った。




