タイライジ
不意に空が唸った。
見上げると、黒い雷雲が空一杯に広がっている。
「あー、まだ鳴ってるね。ちょっとこれは危ないかな?」
私と同じように顔を上に向けながら、美琴ちゃんは言った。
いつもの面子で今日も部活…と言うわけではなく、椎名さんの家に集まって勉強会をしていたのだ。
勉強会と言えば聞こえは良いが、その実、夏休みの宿題消化会である。
まだ終わってない科目のものを椎名さんに教えてもらったり、写させてもらったりして、提出できる程度には終わらせるのだ。
これはその、帰り際の出来事だった。
「どうしよう?どこか避難できる場所、ないかな?」
きょろきょろと私は辺りを見回す。
折り悪く、そこは田園地帯。
回りにある私たちより背の高いものといえば、疎らに立つ木くらいのものだ。
椎名さんの家にいた頃は雷鳴が酷く、この町の何処かに落ちたなんて話が聞こえるくらいだった。
それが帰るときには収まっていたから、近道の田園地帯を通ることにしたのだが…甘かったらしい。
「いや、ここは突っ走ろう。あと数百メートルくらいで抜けられるからさ。」
言うやいなや、美琴ちゃんは駈け始める。
私もそれに遅れまいと全速力でもって追い縋った。
どれくらい、そのまま走っただろうか。
息も切れ始める頃に、多少木々の密になった場所が見えてきた。
「夕子ちゃん、彼処まで頑張って!もう少しだから!」
振り返りながら、美琴ちゃんは私の方へそう叫ぶ。
そのせいで、彼女には見えなかったのだろう。
突如として、道の脇の茂みから小さな影が飛び出してきたのに私は気付いた。
「美琴ちゃん、前、前!」
「え?わっ、わあっ!!」
寸でのところでそれをかわすも、バランスを崩した美琴ちゃんは盛大に転けてしまう。
私は急いで側に駆け寄り、助け起こす。
「いてて…、有り難う夕子ちゃん。」
「大丈夫?怪我は?」
「う、うん。膝を少し擦りむいただけだから、大丈夫だよ。それより、今のは…?」
二人してその影の主に目を向ける。
そこにいたのは、奇妙な姿をした生き物だった。
大きさはそれほどでもなく、柴犬くらいでだろうか。
しかし見た目は犬でも猫でもなく、豚に近いと言える。
何より一番目を引くのは、その額の辺りに突き出した、細長い瘤の様なものだ。
そんな見たこともない生き物が、道端でうずくまっている。
どうやら向こうも、かなり驚いたらしい。
「なにこれ。猪の子供?」
「額の瘤はなんだろ…。何か病気でも患ってるのかな?」
色々と推測をしながらそれを眺めていると、ふとその生き物は顔をあげる。
お世辞にも可愛い顔、とは言えないものの、円らな瞳にその体格の小ささもあって、愛嬌は有るように感じた。
ちょこちょこと短い脚を動かして歩くが、何処と無くふらついている。
「どこか、怪我してるのかな?」
気にかかり、生き物に触れようとすると、美琴ちゃんが強くそれを制止する。
「だめだよ!野生動物はどんな菌持ってるか分からないんだから、触れちゃいけないんだって。」
「そ、そうなの?」
いつも変なとこに行っては危険な目に会う割には、現実的なところしっかりしている。
その言葉に私は手を引っ込め、去っていく後ろ姿をただ見つめる。
その奇妙な生き物は、覚束ない足取りで道を横切ってから、反対側の茂みに入っていった。
「…さ、私たちも急ごうよ。」
尚も茂みを見つめる私に、美琴ちゃんはそう声を掛けた。
空は依然として、時折雷鳴が轟いている。
このままでは雨も降りかねないと判断した私たちは、そこからも走ることにした。
結局長距離を走ることになり、宿題の消化で残り少なくなっていた体力が更に消費されてしまう。
美琴ちゃんと別れる場所に着いたときには、もうまともに立っていられない程だった。
「大丈夫?夕子ちゃん。」
膝に手をついて荒い息を整える私を心配してくれているようだった。
よもや先程の生き物と同じ扱いになるとは…。
「い、いや…大…、大丈…夫、だよ…。」
「全然大丈夫そうには見えないけど…本当に体力無いね、夕子ちゃんは。」
対して美琴ちゃんは平然としている。
運動部に所属していないだけで、元々運動神経は良い方だし、色々と曰く付きの場所へ足しげく通っているから、体力はあるのだろう。
そこはちょっと羨ましい。
暫くそうしてから、最後に大きくため息を吐き、粗方落ち着いた所で私は美琴ちゃんと別れる。
「じゃあね、夕子ちゃん。また明日ー。」
大きく手を振りながら遠ざかる美琴ちゃんに、私も大きく手を振り返す。
そう、明日もあるのだ。
膨大な量を誇る夏休みの宿題が、一日で片付く筈もない。
結果、明日も椎名さんの家で勉強会だ。
(明日は、今日みたいな走る理由がなければ良いけど…。)
今日の走る原因となった雷雲を、私は見上げる。
その時、一瞬視界が強い光に眩んだ。
大きな稲光が空中を流れたのだと気づいたのは、耳をつんざくような雷鳴が鳴ったときだった。
それは光に遅れること僅かで聞こえたから、かなり近いことは分かった。
ただ、少し気になったのは──
それが、地上から雲へ向かっていたように見えたことだった。
「ただいま帰りましたー…。」
島に続く橋を渡り、自分の家に着く。
玄関の戸を開くと、丁度宮比さんが目の前にいた。
位置的に、電話に出ていたところだったらしい。
「おうお帰り夕。宿題は終わったのか?」
「いえ…まだ半分以上残ってます。宮比さんは仕事の話ですか?」
「ああ、まあそうだな。終わった案件だけどな。」
また何か怪異でも出たのだろうか?
いつものように、私の好奇心が顔を覗かせる。
それが表情に出ていたらしく、宮比さんはやれやれ、といった感じで話を始めた。
「“タイライジ”が出たって話があったんだよ。」
「“タイライジ”?」
「タイライはそのまま大きな雷で大雷だ。そんでジってのは先ず日本じゃ見ない漢字だな。凹の下にルみたいな足が付いてるんだ。字面的には“児”ににているな。」
「へえ…そのジってなんの意味が有るんですか?」
「中国の幻獣…かな。ユニコーンみたいな一角獣の一種だ。ただ、馬じゃなくて牛みたいな姿なんだと。んで、タイライジはそれに似てるからそう呼ばれてるんだ。タイライジ自体も中国の幻獣だから、つまりは大陸からの流れ者だな。」
一角獣と聴いて、私はふとあの奇妙な生物のことを思い出す。
とても牛に似てはいないし、角と呼べるか微妙なものだったが…。
「ん?どうした夕。」
「い、いえ、何でもありません。それで、そのタイライジというのは危険なんですか?」
「いや、本人は至って大人しいんだがな。大雷という言葉の通り、雷獣なんだよ。触れると感電死する危険があるんだな。」
「…!!」
「ん?真っ青になってどうした?夕。」
「い、いぇ…。続けてください…。」
「?…で、普段は雷雲の中にいるそいつなんだけど、落雷に伴って地上に落ちてしまうこともあるんだ。この季節はよくタイライジが流れてくることもあるんで警戒してたんだけど、今しがた雲中に戻ったのが確認されたらしい。今のが、その電話だ。」
「そんなの、わかるんですか?」
「ああ、夏の雷は殆ど雲から地上に落ちる下降型落雷なんだけど、さっき上昇型落雷が見られたらしいんだ。それが、タイライジが雲に帰った印なんだよ。」
美琴ちゃんと別れた際の、あの雷。
あれがそうだったんだと、ふと思い返す。
「広大な大陸から風に乗って、遙々こんな小さな島国までうっかり流されて、挙げ句雲から落っこちるんだから抜けてる奴だよなあ。まあ、その方がのんびりとしてるイメージの牛に合ってると言えなくもないな。」
最後に宮比さんはそう締め括った。
話が終わったところで、私は自分の部屋に入り、そして大きくため息を吐く。
あのとき、美琴ちゃんに止められていなかったらと思うと、嫌な汗が体を伝う。
…明日、お礼を言っておこう。
いや、そもそも美琴ちゃんがぶつかりそうになったのを教えたのは私だから、お互い様だろうか?
そんなことを考えながら部屋の窓から外を見ると、赤く染まった空が見えていた。
先程まで街の上空を覆っていた黒い雲は、太平洋上に流れている。
…このままタイライジの乗った雲は、遠くアメリカまで行くのだろうか。
刹那、雲の中が大きく、そして強く光った。
どうやら、雷が駆け巡ったらしい。
ほんの僅かな時間のものでありながら、目に焼き付いたその雷光の描いた線は、何処と無く、あの生き物の形に似ていたような気がした。




