擬く紙
八月も、終わりが近づいていた。
時が早く過ぎるようになったと初めて感じたのは、いつ頃だっただろう。
今年の夏も、もう終わる。
別に好きな季節ではないが、晩夏というものはどうにも人を感傷的にするらしい。
「おい、夕。さっさと起きて朝飯を食え。もう10時前だぞ。」
その体を揺するようにして起こす。
寝惚け眼を擦りながら起き上がった夕の髪は、酷く乱れている。
「…ぁ、おはようございます、宮比さん…。」
朝の10時を早いと感じるなら、なんと羨ましい時間感覚であろうか。
別に夜更かしをしているわけでもないのに、こんなに眠れるのは元気な証拠なのだろう。
「阿呆、何がおはようだよ。今日は堀野サンたちと部活なんだろ?」
「あっ、そうだった!」
その事を思い出した途端に目が覚めたらしく、駆け込むようにして部屋から出ていく。
聞くところによると、今日は幽霊が出ると噂されている林道に行くらしい。
確認すると、それは嘘話であるようで、特に問題無さそうなので行くことを許可したのだが…。
まあ、こういうことも経験だろう。
それから夕に朝食を食べさせている間に、細々とした家事を済ませていると、突然呼鈴が鳴った。
出てみるとそれは郵便だった。
届いたのは、一通の手紙。
小綺麗な封筒には、“阿代 周”と差出人の名前が達筆な字で書かれていた。
「手紙が来たんですか?」
朝食を粗方済ませた夕が、そう尋ねてくる。
「ああ、阿代さんからだ。覚えてるだろ?」
それは、以前私の受け持った仕事の依頼主の女性だった。
典型的な和風美人といった顔立ちで、亡父の後を継いで日本画を書いていた。
それが完成したら知らせる、と言っていた事をふと思い出し、内容はその事か、と封を切る。
「絵、完成したんですか?」
如何にもわくわくとした表情で、夕は言う。
誰よりその完成を心待ちにしていたのはこの子だろう。
綺麗に書き連なる字を読み進めていくと、案の定の事が書かれていた。
ただ、最後の行を除いては。
「…ああ、やっとこ絵が完成したってさ。で、直ぐに受け取りに来てほしいって書いてある。」
「え?受けとる?」
怪訝そうな表情をする夕。
“見たい”とは言ったが、“欲しい”とは言ってないので、それも当然だった。
ましてやその絵は彼女の父の遺作とも言え、彼女が持つべきものだと思うのだが…。
「まあ、阿代さんがそう言うなら、行くしかなかろう。夕が部活に行っている間に、受け取ってくるさ。」
「うー…私も行きたいんですけど、仕方ないですね。」
突然ながら私も外出の予定が出来、二人して準備をする。
その途中、虫取から和男が帰ってきたのと鉢合わせた。
「ん?夕子ちゃんはともかく、宮比もどっか行くのか?」
「ああ、急用が出来てな…あ、そうだ。お前もついてこい、和男。早く準備をしろ。」
彼女の家に泊まった際、未完成の絵を見たのだが、随分と大きかったことを思い出す。
結構な重さが有りそうなので、男手も必要だろう。
「あ?何でだよ。俺は此れから取ってきた虫を甕に入れて蠱毒を…」
「んな悪趣味な事は後回しにしろ。付いて来んと以後飯を作ってやらんぞ?」
この言葉は効果があったらしく、和男は渋々ながら頷いた。
また、阿代さんの家は少し遠く、小高い山の中にあったことも思い出した私は、電話をすることにした。
その相手は…。
「…私、宮比さんの専属運転手みたいな扱いになってませんか?」
「だって気軽に誘える知人で運転出来るの新香だけだしな。」
島の入り口近くまで、車で新香に乗り付けてもらった。
流石に絵を担ぎながらあの距離を歩くのは辛いからだ。
ともあれ準備は整い、阿代さんの家まで、車で向かう。
思えば、あれからもう3カ月近くが経とうとしているのか。
改めて、時の過ぎる速さには驚かずにはいられない。
途中で車から降り、少し坂道を上ると、街を一望出来る場所に出る。
そしてその片隅にぽつんと建っている小さな建物が、彼女の家だ。
「こんなところに女一人の身で暮らすってのは…中々の変わり者だな。」
「お前が言うなや。兎に角、鳴らすぞ。」
しかし、呼鈴を鳴らしても何の返答もない。
二回、三回と続けて呼ぶも、家はしんとしている。
流石におかしいと思ったのか、新香が言った。
「…留守なんじゃないですか?」
「手紙で直ぐに来いって言っといて、家を空けるかね?」
そもそも何故手紙で知らせたのだろう?
私が彼女の家を去る際、また何かあったら連絡下さいと住所と共に電話番号を教えている。
色々な疑念を抱えながらも、何気なく戸に手を掛けると、何の抵抗もなくそれは開く。
「なんだよ、開いてんじゃねえか。」
嫌な予感が、募り始める。
幾ら回りに人気のない場所とは言え、鍵を掛けないのは不用心だ。
…何か、有ったのかもしれない。
そう思った私は、家に素早く上がり込む。
「あ、宮比さん!?勝手に上がるのは…!」
新香の制止の言葉を無視して更に進む。
家の中は荒らされた形跡はなく以前と同じ様にきっちりと纏まっていた。
取り合えず、泥棒の類いは無いようだが…
「おい、宮比。いきなりどうしたんだよ?」
「…嫌な予感がしたんだ。彼女の身に、何かが有ったような気がして…。」
「鍵が掛かってなかったからか?でも俺も地元じゃあ鍵はあんまり掛けないぜ。」
そりゃあ、山奥の、ここよりもっと過疎の村で、しかも強面の大男の家なんざ忍び込む奴はいないだろうさ。
和男の意見は置いといて、私は更に部屋を回る。
そして、以前彼女が絵を描いていた一室へと足を踏み入れた。
「……!」
そこには、その時と同じ様に、床に絵が敷かれていた。
違うのは、それが完成していた点。
事細かにこの街の風景が描かれ、親子二代を掛けたそれは、芸術に疎い私ですら見事なものだと思うものだった。
「これが受け取る絵ってやつか?」
「凄い、綺麗な絵ですね。私も欲しいくらいです。」
後から入ってきた二人も、その絵に見とれていた。
しかし、そこにも肝心の阿代さんの姿は見えない。
「ん?」
私は壁にも一枚の絵が掛けられているのを見つける。
それは、美人画であろうか。
女性が一人、佇んでいる絵だった。
これは、前には無かった筈だが…。
日本画であるが故に、そこまで写実的ではないのだが、眺めているうちにそれが彼女に似ているような気がしてくる。
特徴というか、雰囲気というか…何処と無く、にているのだ。
なんとなくそれを手に取り、意識を集中させてみる。
…特に何も聞こえない。
九十九の魂は、無いようだった。
「宮比さん、これ…。」
何かを見付けたらしい新香が、一点を指差す。
そちらに目を向けると、書き置きらしき紙とこの家の鍵が置かれていた。
私は先ず紙を拾い上げ、読み下す。
「何て書かれてるんですか?」
「…。」
それは、謝罪の言葉から始まる文だった。
そして、絵が完成した以上、この家に留まる理由が無くなったこと、代々伝わる物品も引き取って欲しいこと、それらは別の部屋に纏められていること等が書かれている。
“誠に身勝手な事で申し訳ないのですが、何卒、お願いします。”
最後はそう締め括られていた。
横から文を読んでいたらしい和男が、口を開く。
「なんでえ、家主さんはどっかに行っちまったってことかよ?」
「…ああ、これを読む限りは、そうなるな。」
「じゃあ、鍵が開いていたのは、私たちが入れるようにするためだったんですね。でも、その方は何処に行ってしまったんでしょうか…?」
身寄りがいるという話は、聞いていない。
僅か数日一緒であっただけだし、そこまでの話はしなかった。
それに、彼女はこの町が好きだと言っていた。
なのに、絵が完成したからといって離れるのは何故なのか。
考えれば考えるほど、理由は見えなくなっていく。
「…いや、今は彼女の要望通り、絵を受け取って帰ろう。」
「物品はどうするんですか?」
「一旦絵を私の家に置いた後、またここに戻って車に詰め込めばいい。流石にそれまで私は引き取れないから、仕事場の方に一先ず回そう。」
仕事柄、古いものを引き取って欲しいという要望を受けることは多い。
だから、尾白さんの仕事場にはその為の場所がある。
私の家に持ち込んでも、無駄に朽ちさせるだけだろう。
絵を慎重に丸め、側に添えてあった箱の中に納めた後、私と和男で担いで車の中に入れる。
そして各々が車に乗り込んでから、その場を離れた。
「しかし、家の物を他人に頼んで自分は雲隠れってのは、流石に身勝手過ぎやしないか?」
道中、和男がそう言う。
「何か、そうせざるを得ない理由があったんでしょうかね。」
「理由って…例えば、借金から逃れるためとかか?」
二人は二人で、それぞれ阿代さんがいなくなった理由を考えているようだった。
対する私も、ある一つの考えに至っていた。
「…なあ、二人は“擬く紙”の話は聞いたことあるか?」
「あ?なんだそりゃあ?」
「ああ、“真似紙”の話ですか。それなら私は聞いたことあります。」
そう、またの名を真似紙というその怪奇譚。
昔この地方に、売れない画家が住んでいた。
ある日紙を切らしたその画家は、何とかして調達しようとするも金が無く、廃寺の障子紙をこっそりと拝借した。
それは上質な和紙であったらしく意外にも綺麗で、それの上に絵を描き始めた。
するとどうしたことか、描いたものが紙の中から出てきたという。
驚きつつもそれに目をつけた画家は、見せ物の様に近くの村人に見せて回った。
当然そのことは話題となり、瞬く間に画家は有名となる。
その内に画家の描く絵自体にも注目が集まり、その画家は大成すると言った主旨の話だ。
「そりゃあ画霊とは違うのか?」
話を聞いた和男は、そう尋ねてくる。
「まあ、似て非なるものだな。画霊は描いた絵が九十九神となったものだが、擬く紙は和紙そのものが九十九神となったものだ。」
「ところで、その話がどうかしたんですか?」
新香は脈絡のない話をどうして…とでも言いたそうにしている。
「…あの部屋の美人画が、彼女に似ている気がしてな。もしかしたら、あれが彼女本人だったんじゃないかって、思ったんだ。」
私の予想に、二人は顔を見合わせる。
和男はともかく、新香も信じられないと言った風だ。
「でも宮比さん、擬く紙はその名のとおり、所詮“擬き”でしかないんですよ?数日一緒に暮らして宮比さんが気付かないとはとても…。」
彼女のいう通りだった。
擬く紙という名が示すように、その出てくるのは不完全な物だ。
到底本物とは言えず、何処か違うと昔話は言っている。
しかし、それに対する答えも私の中にはあった。
…もしも、彼女を描いた和紙が大昔のものだったら?百年どころか、千年近い時を過ごしたものだったら、どうだろうか。
九十九の神は、時を経る程に変化としての力を増すという。
和紙は耐久性に非常に優れ、その年数は千年にも迫ると言われている。
それを、彼女が父と呼んだ画家が手に入れていたとしたなら…。
それに、彼女が擬く紙という九十九神であったなら、彼女の前に白魎が姿を現した理由にもなるのだ。
「自分の命が後僅かな事を知ったその画家は、何処かで聞いた擬く紙の話に準えて古い和紙を手に入れた。そしてあの絵を完成させるように頼んだのだとしたなら、全てが繋がるような気がしてな…。」
「でも、その紙からしたらいきなりな話じゃないか?そこまでしてやる義理は無いと思うがな。」
と、反論を述べる和男。
確かに、長い眠りについていたところを起こされた挙げ句、絵を描かれて訳もわからぬ後事を託されても困ると私たちは感じるだろう。
けれども、そこは人と九十九神の違いが有るのではないか。
「紙として生まれて、長い間使われる事なく放置されてきた。そこへ、紙として自身を使ってくれる人が現れた。…それは、彼らにとって恩と感じるには十分な事と考えられなくはないか?」
その恩を返すために、人と成りて絵を描き上げた。
それが、事のあらましなのではないだろうか?
「だとしたら、何故彼女は絵に戻ってしまったんです?」
「…白魎に魂を吸われて、変化としての力が弱まり、人としての形を保てなくなってしまった、という辺りが妥当じゃないかな。」
無論、全てが推測の域を出ない話だ。
今ごろ彼女は、どこか違う場所で暮らしているかもしれない。
…それならそれで──いや、そちらの方が、いいのだろう。
あの絵には、九十九の魂は感じられなかった。
私のこの考えが当たっていたとしたら、それは彼女の死を意味する。
だったら、外れていた方がずっといい。
(どちらにせよ、夕は彼女がいなくなった事を悲しむだろうな…。)
絵もそうだが、阿代さんに会うことを夕は楽しみにしていた。
もう二度と会えないと言うことを、なんと伝えれば良いのだろう。
車窓から、外を眺める。
ふと、白魎が去ったのを確認し、阿代さんの家から去る日の事を思い出した。
私はその際、また絵を見に来ることを考慮して、「それでは、また。」と言った。
それに対して彼女は少し間を置いた後、微笑みながら「ええ、また、次の機会に…。」と返していた。
何処と無く、その微笑みは悲しみを含んでいたようにも思える。
…あの時もう、彼女はこれが今生の別れであると分かっていたのだろうか。
願わくば、私の推測が外れているようにあって欲しい。
柄にもなく、私は一方的な願い事を神に送った。




