禍福の兄弟
夏は、嫌いだ。
暑さもそうだが、何より私の仕事の関係上、もっと厄介なものがある。
「ただいま…。」
ここ最近、それが結構な頻度で続いている。
真夜中に、寝る間も惜しんで仕事をしているお陰で、体の疲れが殆どとれない。
「お、帰ったか宮比。お疲れさん。」
まだ起きていたらしい和男が居間から出てくる。
その余裕綽々の表情が羨ましいやら妬ましいやら。
こういうときばかりは、仕事の少ないこいつと代わりたく思う。
「…今度から、お前にも手伝ってもらうか。」
「おう、良いぞ。むしろそれは俺向きの仕事だろう?」
豪快に笑い飛ばして和男が言う。
…それもそうだな。
冗談のつもりだったが、今度尾白さんに提案してみるか。
そんなことを思いながら、私は台所へと向かう。
そこで茶のペットボトルとコップを持って居間に入ると、麦酒缶を片手にテレビを見る和男の姿があった。
そして卓上に視線を移すと、既に空となった缶が3つ。
元々和男の為に買っておいた物ではあるが、家人の許可もなく勝手にこれ程開けるのは如何なものか。
「…よくもまあ、人ん家でそこまで寛げるよな。もう少し遠慮って物を知るべきだと思うぞ。」
「まあ、お前には気が置けないからな。遠慮する気が失せるっつーか。」
「…親しき仲にも礼儀ありって言葉を知らんのか?全く…。」
「まあ良いじゃねえか、疲れてんだろ?一杯やるか?」
「…私が酒飲めないの知ってて言ってるだろ。」
体質的に、私は酒が飲めない。
少し入っただけで、酔っ払う。
そもそもその味もあまり好きではないのだが…煙管の方が余程性にあう。
対して和男は土佐人らしく、かなりの豪酒家である。
「ああ、そうだったな。しかしまた尾白の爺さんも無茶言うよな。こんな夜中に一人で廃墟に言ってこいとか。」
「あの人は私を女と見てないんだよ。」
「まあ普段は俺も見てないけどさ、こういうときばかりは同情するね。管理側ってのも大変だな。」
夏場の夜の仕事。
それは、胆試しと称して廃墟等に侵入してくる輩を追い払うことだ。
入ると危険な所は鍵をしてあるものの、それを壊してまで入る馬鹿がたまにいる。
そう言うのがいた場合、その近所に住む人に連絡してもらうように頼んである。
連絡が来ると、大抵私にお呼びが掛かるのだ。
「ま、お前は腕っぷしは強いからな〜。並大抵の野郎じゃ相手にならんだろうし、そこを尾白の爺さんも買ってんだろ。でも今度連絡来たら、俺に回せよ。面白そうだしな。」
「ああ、掛け合ってみるよ。和男なら相手は見ただけで逃げるだろうし、ヤクザが管理してる土地って噂が立って侵入者が減りそうだしな。」
当に一石二鳥な訳だ。
これなら、尾白さんも納得するだろう。
取り合えず茶を飲もうとコップとペットボトルを卓上に置き、その場に腰かける。
その時、ポケットから鍵束が床に滑り落ち、大きな音を立てた。
「いっけねえ。鍵束戻すの忘れてたわ…。」
鍵束を拾い上げようと屈んだ時、ある文字列が目に入る。
“里郡町廃ビル”
そう、タグに書かれた一つの鍵。
偶々束の中から現れたそれは、私の苦い記憶を瞬時にして呼び起こした。
「ん?どうした、宮比。固まっちまって…。」
和男はその私の一瞬を、目敏くも見逃さなかった。
「ああ、いや…少し、昔のことを思い出しちまってな。」
「何だ?昔のことって…。“里郡町廃ビル”…?」
私が拾い上げるより先に、和男はタグを読み上げる。
それは里郡町という、この市でもそれなりに発展した町にある古ぼけたビルのことだ。
もう随分前に無人となり、老朽化具合と不気味な雰囲気から、一時期心霊スポットとして話題になった。
「そこ、何か曰くでもあるのか?」
「…いや、ない。本当に只の廃ビルだった。元々はな。」
「元々はって事は…今はあるのか?」
私は黙ってコップに茶を注ぎ、一息にしてそれを飲み干す。
「そうだな…思い出したついでに、聞いてもらうとしようか和男。これは、私がこの仕事に就いてから、一年ほどしたときの話さ──」
当時、私は20になったばかりだった。
やっと人前で堂々と喫煙が出来る。
そんな事に喜んでいた頃だ。
尾白さんが、私に一本の電話を掛けてきたんだ。
仕事が入ってきたが、手一杯なのでお前に回す、といった主旨の電話だった。
その時はまだ一人で仕事をしたことはなく、初めての大役を任されたと、張りきったものさ。
依頼主はこの市に住む大学生。
見るからに気の弱そうな、おとなしい人だった。
名を瀬馬由人と言った。
「その…僕の友人が最近おかしいんです。」
開口一番、彼はそう言った。
私はその時、余程『おかしいのはお前だ!』って返したかったよ。
だって、彼の頭上にあるものが浮かんでいたんだ。
赤ん坊さ。
いや、胎児と言うべきかな。
まるで風船のように、彼に臍の緒のようなものの端を引っ付けたまま浮かんでいた。
当然、私はそれに釘付けになった。
それを、彼が不審がらない筈がない。
私の見ているところを見上げるも、それは見えていないようだった。
「あの…何か?」
「あ、いえ、何でもありません。すいません、続けてください。 」
その時の私はまだ初々しいもので、顔を真っ赤にしてそう言った。
瀬馬君は訝しげな顔をしながらも、話を続けた。
大学合格の記念に、胆試しをやろうという話が高校の仲間内で持ち上がったらしい。
季節は当然、春。
時期の少し早い胆試しだな。
瀬馬君は嫌がったものの、仲間に半ば無理矢理連れ出されたんだそうだ。
その肝試しの場所というのが、件の里郡町廃ビル…。
当時、噂としてそのビルを持っていた会社が不況の煽りで倒産し、社長が最上階の一室で首を吊ったというのがあったそうだ。
ありがちで、根も葉もない話さ。
それで肝試しの内容がその部屋まで一人で行き、火の着いた蝋燭を置いてくると言うものだった。
順番は、瀬馬君が2番目に行くことになった。
先陣を切るのは、迫間翔大と言う子だった。
彼は、瀬馬君と小中高そして大学も一緒になった、長い付き合いの友人だった。
瀬馬くんとは逆に肝の座った子で、怖じ気づく素振りを全く見せずにビルに入っていった。
それから彼は、二十分位して帰ってきたと言う。
そして次に出立する瀬馬君を、励ましてくれたそうだ。
それに幾分か勇気付けられた瀬馬君は廃ビル内を回り、例の部屋に蝋燭を置くと、足早に去った。
そして皆の元に帰ると、迫間君の姿がない。
どうしたのか、と聞くと、気分が悪いと言って帰ったとの事だった。
幽霊に取り憑かれたのかもな、と一人が冗談で言うと、笑いが起こった。
何事もなく廃ビルを回り終えた瀬馬くんも、達成感と安堵感から、その時は一緒になって笑ったそうだ。
「でも、それからの翔大の様子がおかしくて…本当に何かに取り憑かれたのではないかと思いまして。」
頭上に胎児の幽霊らしきものを浮かべながら、瀬馬くんは言った。
けれども私は、その事は言わなかった。
気の弱い彼にそんなことを言ったら、無用の恐怖を与えかねない。
現状彼に何もないのなら、わざわざ言うことも無いだろう、と考えたんだ。
「その、様子が変というのは…?」
「いえ、見たわけではないのですが…折角受かった大学にもずっと来ないし、携帯で電話してもメールしても返事は来ない。部屋にいっても出てくる気配はないんですよ。家賃は払ってるらしいし、出入りも多少あると聞いたので、無事なのは確かなんですが…。」
なるほど、胆試しの後から姿を見せなくなったと。
それなら何かに憑かれたと思うのも当然だ。
「うーん、そうなると…その迫間くんに会わないと、何とも言えませんね。彼の住所を教えて頂けないでしょうか?」
「あ、はい。分かりました。」
そう言って彼は一枚の紙切れに住所を書いた。
そして瀬馬くんとの話はそれで終わった。
帰り際、私は一つ彼に聞いてみたのさ。
「その…一つ、聞きたいんですけれども。」
「はい、何でしょうか?」
「貴方は何ともないんですか?その…胆試し以降に、何か変わったこととか…。」
「いえ、特には……ああ、強いていうなら、最近は妙に運が良いんですよ。」
「運が良い…?」
「大したことはないんですけれど、ずっと探してた失せ物が見つかったり、懸賞が当たったり…ほんとに些細な事なんですけどね。」
少し嬉しそうな顔をしながら彼は言った。
果たしてそれは、その胎児のお陰なのだろうか。
そもそもその胎児は胆試しの時に憑いてしまったのか。
それとも、以前から憑いていたのか。
その時は分からない事が多すぎたから、そうですか、位で済ませたんだ。
瀬馬くんの部屋を出た私は、そのまま迫間くんのところへと向かった。
彼は小さなアパートの一室で暮らしていた。
教えてもらった番号の扉の前に立つと、中から物音がする。
在宅なのは間違いなさそうだったから、私は呼び鈴を鳴らした。
「すいません、迫間翔大さんのお部屋でしょうか?」
「…。」
「私、原江宮比と言います。友人の瀬馬由人くんの依頼で来たのですが…。」
扉に向かってそう言うと、がちゃりと音がして、開いた。
中から出てきたのは、毛布を頭まで被った迫間くんだった。
顔は酷くやつれ、かなり疲弊しているようだった。
「由人の依頼…?貴女は何者なんですか?」
「その…怪異専門の仕事をしていまして…。」
そう私が言うと、彼の目付きが変わった。
明らかに警戒しているような目だった。
「…帰って。」
「え?」
「どうせ何か高いものでも売り付けるか、金を騙し取ろうという魂胆なんだろ?」
この仕事の性質上、そう疑われるのは仕方のないことだった。
まだ新米だった私ですら、何回か経験していたこと。
だから私は努めて冷静に切り返した。
「いえ、そういう事をしに来たわけではありません。ただ、貴方の話を聞きに来ただけなんです。」
「話…?」
「聞くところによると、迫間さんはずっと大学にも出ていないそうで…何かあったのかと心配した瀬馬さんが、私に相談してきたのです。その、ずっと顔を見せなかった理由を知りたくて…。」
私のその言葉に、暫し迫間くんは考えていた。
そして話す決心をしたのか、私を部屋に入れてくれた。
中は、ひどい有り様だったよ。
散らかり放題のごみだらけ。
辛うじて寝るスペースが確保されているくらいのものだった。
無理矢理に座る場所を作った迫間くんは、私と向かい合って座り、ぽつぽつと語り始めた。
それによると、あの夜以来どうにも運が悪いという。
体調を崩した事から始まり、財布を落としたとかガラの悪い連中に絡まれたりだとか。
極め付きは何回か命の危機に巻き込まれたのだそうだ。
「車に轢かれそうになったのが3回、高所から落ちそうになったのが1回、川に落ちて溺れかけたのが1回…。一歩間違えれば死んでいました。」
その時の事を思い出しているのか、震えながら迫間くんは言った。
そんなことが続いたなら、外に出たくなくなるのも頷ける。
動かなければ、悪いことも起こりにくい。
そういう意図だろうことは、容易に想像できたさ。
ごみの山は、極力外出しなくなったことの弊害なのだろう。
「こんなことになるなら、あのビルに行かなければ良かった…。」
強い後悔によるものか、身を震わせて彼は言った。
その目には涙が浮かんでいて…何としても助けようと、その時私は心に強く誓ったものさ。
「ところで、これはやっぱり何かが取り憑いた事によるものなんでしょうか?」
私を真っ直ぐに見据えて、彼はそう聞いてきた。
正直、何もわかっていなかった。
ただそのビルに行ったことがいけなかった、ということしか、解らなかったよ。
「まだ、なんとも…原因がそのビルにあるのは確かなのですが…。」
その時、私は何気なく上を見た。
そして驚いた。
彼にも、瀬馬くんと同じように胎児の幽霊が憑いていたんだ。
臍の緒のようなものを付けて浮いているそれは、瀬々くんのものと寸分違わぬように見えた。
「ど、どうかしたのですか?」
その私を見て、彼は怯えた声を出した。
瀬馬くん同様、彼にはそれは見えていないらしく、ただ震えていた。
私は少し迷った。
ありのままに話すべきかどうかを。
二人に同じようなものが取り憑いている、ということを──。
でも、原因を話せば、多少は落ち着くかもしれない。
“解らない”より、少しでも“解った”ことが増えれば、彼も安心するだろう、と思ったのさ。
だから話したんだ、全てを。
「…貴方に、胎児のような姿の霊が取り憑いています。」
「胎児…?」
「恐らく、それはそのビルに言ったときに憑いたものでしょう。…瀬馬くんにも同じようなものが取り憑いていましたから。」
「由人にも?由人は大丈夫なんですか?」
彼はそう聞いてきた。
自分が酷い目にあっているのに、他人の心配をするなんて感心な人だと素直に思った。
「瀬馬くんは大丈夫ですよ。寧ろ運が良くなったとか言って喜んでいました。それが胎児の霊によるものかは解りませんが…貴方が不幸に見舞われているのなら、彼の幸運もまた胎児の霊が関係していると思われます。」
それを聞いた迫間くんは、「そう、ですか…。」と一言呟いただけ。
なんだか複雑そうな顔をしていたよ。
そりゃあそうだろう。
瀬馬くんにも何か取り憑いているのに、彼には幸運が、自分には不運が降りかかってるんだから。
「兎に角、その胎児を除くことができれば不運も収まるかと。」
「…どうすれば、いいんですか?」
「それは…まだ、解りません。私はこれから帰って、過去に同様の事例が無かったか調べてみます。そうすれば、手がかりは掴めるかもしれません。」
「……。」
「大丈夫です。私が何としてもその霊を祓って見せます。だから、安心してください。」
解るまでは、今まで同様じっとしているように、と言い残して私は彼の部屋から出た。
そして次に向かったのは、尾白さんの仕事場さ。
そこには膨大な数の妖怪関連の書籍があるからな。
そこを調べれば何かしらわかるだろうって思った。
いやもしかしたら尾白さんが知ってるかもしれない。
そんな期待もあった。
「臍の緒のようなものを取り憑いたものに引っ付けて浮かぶ赤子の霊…?」
しかし、詳しく伝えても尾白さんはピンと来ないようだった。
余程無名の怪異なのか、それとも最近新しく生まれたのか。
「…ここにある書籍を片っ端から当たれば、何か解るやもな。丁度此方の仕事は一段落ついたし、わしも手伝うとしよう。」
そして、二人がかりで本という本を漁った。
だがこれが途方もない難事でな…。
何せ、そこにある本は数百冊。
二人でも、何日も掛かった。
不眠不休でやったにも関わらず、だ。
そして、漸く見つけた。
書いてあったのは、至極頁数の少ない、薄っぺらい本。
個人が書いたらしい、手書きのものさ。
それはこの日諸の怪異を纏めたものだった。
恐らく、著者が体験したものを纏めたのだろう。
目的の頁には、丁度太極図のように向かい合った二人の赤子が臍の緒をくっつけ合っている奇妙な挿し絵が大きく描いてあった。
その隣には、その怪異の名前と解説だと思しきものも添えてあり、こう書かれていた。
“禍福の兄弟”
双子の胎児に似た姿の妖怪。
普段は互いに臍の緒をくっつけあい、胎内にいるが如く浮かんでいる。
だがその繋がりは非常に脆く、人が近くを通っただけで途切れてしまう。
そして切れた緒の先をその人間に付け、取り付いたかのように行動を共にすると伝わる。
その取り憑いた人間を幸福にする方を福兄、不幸にする方を禍弟と言う。
まあ、要約すればこんなところか。
つまり、瀬馬くんには福兄が、迫間くんには禍弟が憑いてたってことさ。
恐らく、ビルにいたこの兄弟の近くを迫間くんが通ったことで繋がりが切れ、禍弟が彼に憑いた。
そして後からきた瀬馬くんに、残っていた福兄が憑いたってことだったのさ。
そして、一番重要な祓い方だが…これは意外にも簡単なことだった。
兄弟を再び近づければ、自ずと一つになる
そう書かれていたんだ。
そう、瀬馬くんと迫間くんを会わせるだけで良い。
私はその一文を見て、もう救えたと確信したよ。
その時、仕事場に電話が掛かってきた。
尾白さんは別件でいなかったから、私が出た。
瀬馬くんからだった。
「あ、原江さんですか?瀬馬ですけど。」
「瀬馬さん?どうかしたんですか?」
「さっき、翔大から電話が掛かってきたんです。もう大丈夫だから、二人でどこかに出掛けようって。これって、原江さんが解決してくれたってことですよね、ありがとうございます!」
心底嬉しそうな声で彼は言うんだ。
私は混乱した。
ただ書物を漁っていただけで、まだ迫間くんにはなにもしていない。
解決しているはずがないんだ。
なのに、迫間くんは何故大丈夫だと言ったのだろうか。
「ちょ、ちょっと待ってください瀬馬さん!」
「あ、すいません。これから芝留駅で翔大と待ち合わせしてて、結構時間が押してるので…話は後程に。」
そして一方的に切られる電話。
私は嫌な予感しかしなかった。
急いで仕事場を出て、待ち合わせ場所という芝留駅に向かった。
息を切らせて私は構内に駆け込み、二人を探した。
案外、直ぐに見つけることはできた。
何せ二人して頭上に胎児を浮かべてるんだからな。
丁度、改札口を通った所だった。
私は入場券を買って、同様に改札口を抜ける。
しかし、何番線に行ったのかが解らない。
私が入場券を買っている間に、二人はどこかのホームに降りてしまっていた。
…迷っている時間はない。
頭の中で、急げ急げと警鐘が鳴らされる。
私は一番近い階段を、素早くかけ降りた。
…でもな、そこじゃなかったんだ。
自分の降りたホームを見渡しても、人影すらない。
そして向かいのホームに、私に背を向ける二人の姿があるのを見つけた。
瀬馬くんが前で、その真後ろに迫間くん、という風に並んで電車を待っていた。
直ぐに電車の到着を告げるアナウンスが流れる。
その時、迫間くんは何をしたと思う?
まあ、解るよな。
私も同じことを思った。
だから、力の限り叫んだのさ。
「瀬馬さん!危ないッ!!!」
その声は彼に届いたらしく此方に振り返った。
そこを、迫間くんは押したんだ。
いや、押そうとした、が正しいな。
無防備な背中を押そうとしたのに、瀬馬くんが振り返ったから上手くそれが出来なかったんだ。
驚いた顔をしながら瀬馬くんも抵抗し、二人は揉み合う形になった。
私はその間に階段を掛け上がり、隣のホームへと向かう。
そして辿り着いたとき、二人は勢い余って組み合ったまま倒れた。
ここで二人の明暗を分けたのは、件の兄弟だ。
瀬馬くんは“幸運にも”ホームの上に倒れ込んだ。
迫間くんは“不運にも”ホームから落ちてしまった。
──そこへ、電車が入ってきたのさ。
「そのあとの光景は、そりゃあ酷いもんだった…。一面血の海でな、辺りは騒然となったよ。」
「…なんでその迫間って奴はそんなことをしたんだ?」
今まで黙っていた和男が、漸く口を開く。
酔いもすっかり醒めた、といった感じだった。
「…今となっては分からんさ。でもな、私なりに出した答えはある。」
「どんなのだ?」
「多分、あれァ彼なりに考えた解決法だったんじゃねえかな。」
「あ?」
「私は彼に“二人に同じような胎児の霊が憑いていて、瀬馬くんは幸運に、迫間くんは不運に見舞われている”と伝えたんだ。」
「…それで?」
「この言葉で恐らく、彼はこう思ったんじゃねえかな?“自分と由人の運勢が逆転している”と。」
そこで、和男は何かに気づいたような表情をする。
鈍感なヤツにも、漸く解ったらしい。
「その上で自分が不幸に、相手が幸運になっているのなら、相手を不幸にすればいい。最上の不幸、“死”を与えたなら、自分には最上の幸運が来る…そう、考えたんだろう。」
私に会った後の数日に、何があったのかは解らない。
そう考え、実行してしまう程に追い込まれるようなことがあったのだろうか。
それとも案外、 あの別れ際で既にそれを考えていたのかも知れない。
最早、真実を知る術は無いが…。
「んで、もう一方の瀬馬って子はどうしてるんだ?」
持っていた麦酒缶を空けながら、和男が聞いてくる。
私も長話をして喉の渇きを覚えていたので、取り合えず一口茶を含み、飲み下してから言った。
「…死んだよ。その直ぐあとにな。」
「え…な、なんでだ?」
予想外の答えだったのか、和男は呆然としたかのような顔をする。
私がそれを聞いたときも、同じような反応をした事を思い出した。
「友人に殺されそうになり、その友人が轢死体となる瞬間を見てしまった彼は、生来の気の弱さもあってか、かなりショックを受けてな…。逃げるようにして実家に帰ってしまったんだ。実家の住所を聞いてなかった私は様々な手を尽くして探したが…見つけたときには既にもう、自殺していた。」
「…。」
「彼の母親が言っていたが、死ぬ前の彼は随分恐怖していたそうだよ。“運が悪くなった”と事ある毎に言っていたらしい。」
「でも、そいつには福兄が憑いてたんじゃあ…。」
「その時点ではもう、福兄は彼から離れていたんだ。二人が組み合った時、臍の緒が離れて中空に浮かんでいき、禍弟と一つになって消えていったのを見たからな。…恐らく、福兄が離れた事で幸運が続かなくなり、それで相対的に運が悪くなったと感じたんだろう。弱っていた彼には、それが決定打になってしまったのさ。」
今でも、時々思う。
もしも、もしも私が迫間くんに運不運の話をしていなければ。
もう少し早く、あの本を見つけられていたら。
降りるホームを間違えていなければ。
…二人は、死ぬことはなかっただろう、と。
「流石に、あの時ばかりは参ったよ。もう、この仕事を辞めようかとも思った。この仕事が、こんなにも人の命を負わされる物だったなんて知らなかったんだ。」
「…良く、辞めなかったな。俺なら、多分…。」
「まあ、辞めるのは単なる逃げだって思い直したからな。尾白さんにも辞めるなって釘刺されたし…。」
その際“悪いのは儂で責任はお前には無い”と言われた。
特に何の慰めにもなっていないが、口下手な尾白さんとしては最上級の慰めだったと思う。
尾白さんから見ても、私は落ち込んでいる様に見えたのだろう。
「それで、その兄弟は今も…?」
「ああ、里郡のビルの一室にいるよ。」
全てが終わってから、私は一人でそこへ行った。
真っ暗な部屋の中央で、青白くぼんやりと光る二人の胎児。
それが向かい合い、ゆっくりと回転しながら、浮かんでいた。
「私が近づいたとき、一方が目を開いたんだ。…綺麗な、純粋さを宿した瞳だった。そしてこの兄弟には悪意はないんだって思った。」
「…。」
「…良くも悪くもどこまでも、赤子のままなんだよなあ、あの二人。多分自分達が幸運や不運を産み出してるなんて事を知りもせずに、ただ二人一緒に居れることだけを望んでいるんだろう。」
何故あのような存在になったのか。
何故彼処に留まるのか。
未だ謎の多い存在だが、その思うところは普通の赤子と変わらないのだ。
あの二人に、罪はないと私は思う。
「悪いな、和男。寝る前にする話じゃ、無かったな。」
「いや、此方こそ辛いことを思い出させちまったな…悪かったよ。」
「はは、じゃあおあいこってぇ事にしとこうか。ここはそれで一つ、ケリを付けとこう。そいじゃあな、おやすみ和男。」
「ああ、おやすみ。」
ペットボトルとコップを持ち、私は立ち上がる。
そして台所に向かい、ペットボトルを冷蔵庫に、コップを流し台に置いて再び私は廊下に出た。
暗く、しいんとしたそこは、あの時の兄弟のいる部屋を彷彿とさせるものだった。
「…。」
ポケットから鍵束を取り出す。
そしてその中から、私は先ほどの鍵を探し出し、タグをただ見つめた。
“里郡町廃ビル”
これを見る度、こう思う。
迫間くんが悪いわけではなく
あの兄弟が悪いわけでもなく
ましてや、尾白さんに責任があるわけでもない。
…全ては、私が悪いのだと。
二度と同じことが起きない様にすることで、この罪を償っていかなければならないのだと。
(しかし、私も随分と──罪深い女になったもんだ。)
罪に生き、罪に死ぬ。
そんな人生もまあ悪くない。
寧ろ私にはお似合いだろう。
内心自嘲気味にそう笑ってから、私は自分の部屋へと向かった。




