蝕蝮
教室の窓から、外を眺める。
青い空に白い雲。
そして無限の如く広がる海。
この自分の席から見える景色が、堪らなく好きだった。
時は7月。
途切れることなく聞こえてくる蝉の声が、夏の到来を実感させる。
「ねえ、理央ちゃん。今日帰りに買い物に行かない?」
そう声をかけてきたのは、同じクラスで友人の吉野花香だ。
彼女は何故か、サッカー部のマネージャーをしている。
「あんたまた部活サボる気なの?サッカー部の面々がこの前嘆いてたよ。すぐにどっかに行っちゃうから…。」
「大丈夫!一人マネージャーの後輩入ったか
らさ。」
一体何が大丈夫だというのか。
それはつまり、“私がいなくてもその子が代わりに仕事をやってくれるよ”という意味なのだろうか。
…どうやら、先輩としての威厳というものは欠片もないらしい。
「…あんたが大丈夫でも、私は駄目よ。私だって部活があるんだから。」
因みに私が所属しているのは女子バスケ部だ。
この高校のバスケ部は男女ともにそれなりに強く、全国は兎も角、県内なら強豪の部類に入る。
「ええー、なんか最近付き合い悪いよー。部活なんてサボっちゃえサボっちゃえ。」
「あんたと同類に見られたくないし、却下。夏なんだから部活が特に活発になんのは当たり前でしょ。」
全く、ほんとに何でこの子はマネージャー何かやろうと思ったのだろう。
それだけは謎だ。
そんないつもの間抜けなやり取りをしていると、また一人、私の方へ歩み寄ってくる影が視界に入る。
「あの…理央ちゃん。ちょっと、いいかな?」
「あら、千登勢。どうしたの?」
彼女の名前は杉野千登勢。
花香と同じくクラスの友人だ。
名前の勇ましさとは裏腹に、とても大人しい。
「その…今の話を聞いててこんなこと言うのも何なんだけどね…。ちょっと付き合ってほしくて。」
「そうなの…。うん、解った。部活休めるか聞いてくるから、待ってて。」
「ちょっと待ったぁーーーっ!何その対応の差は!!」
流石にそう突っ込んでくる花香。
彼女が急な大声を出したせいで、千登勢は酷く驚いた反応をした。
「こら花香!千登勢がビックリしてるじゃない!」
「いや、だっておかしいでしょ。私は駄目でちーちゃんが良いって…。」
「あんたは毎日誘ってくるけど、千登勢はあんまりそう言うことしないから、よ。優先度を考えれば当たり前でしょ。」
千登勢はとても引っ込み思案で、いつも人に流されるままにしていた。
そんな彼女が自発的に誘いに来ると言うだけで、断る事は出来ない。
ちょっと過保護すぎるかな、と我ながら思うこともあるけれど、放ってはおけないのだ。
「うむむ…仕方ない。そこまで言うなら今日の理央ちゃんはちーちゃんに貸してあげよう。」
「…言っとくけど、明日の私もあんたには貸せないからね。」
今日明日の部活をサボったら、大変なことになる。
増して一応は強豪校。
本当は一日だって危ないのだが…。
とにかく私は部長の元へ行って事情を話し、なんとか一日の暇を貰う。
そしてOKが出たことを千登勢に伝えると、笑顔を作った。
「ごめんね、理央ちゃん。私の我が儘で…。」
「いいのいいの。他でもない千登勢の頼みなんだから。」
彼女の用とは、描いた漫画の出来を確認して貰いたいというものだった。
そう、彼女の所属しているのは漫画研究会だ。
昔から絵を描くのが好きだった千登勢は、とても絵が上手かった。
高校生という年齢を考えても上手で、商業用でも良いくらいだと思う。
ただ大人しい性格が災いしてか、内容はあまり勢いが無く、面白さに欠けたりしていた。
「これがその原稿なんだけど…。」
手渡された原稿をぱらぱらと捲る。
相変わらず絵は上手い。
内容も、私のアドバイスや自身の研究をしっかりと反映させたからか、向上している。
「良いじゃない。前のよりずっと面白いと思うよ。」
「そ、そうかな?理央ちゃんのアドバイスが有ったからだよ。ありがとう。」
千登勢は顔を赤らめながら、笑顔を作った。
その他少し気になった点を指摘しつつ、二人で時間を過ごす。
漫画の話以外にも、とりとめのない話をしたりして。
気づけば日暮の声が聞こえる時間となっていた。
「あら、もうこんな時間…流石にそろそろ帰ろうか?千登勢…。」
時計から彼女の方へと視線を動かす。
すると千登勢は自身の胸を強く握りしめ、歯を食い縛っていた。
「!!…千登勢、いつもの発作なの!?」
私の言葉に、ただ弱々しく頷く。
額に冷や汗が浮かび、とても苦しそうだ。
しばらくそのままにしていたかと思うと、やがて胸から手を下ろし、ゆっくりと深呼吸をする。
「…ご、ごめんね理央ちゃん。心配掛けて…。」
「ううん、良いのよ。それより治まったの?」
「うん、大丈夫…だよ。」
そう。
彼女は病気を患っている。
いや、本当は病気なのかも解らない。
医者は口を揃えて彼女は健康体だという。
確かに、風邪にかかりやすいとか、病弱という訳ではない。
だが、昔からこの発作が彼女を襲うのだった。
彼女が言うには、物心ついたときからそうだったらしい。
症状としては、心臓が酷く痛むのだそうだ。
針に貫かれるかのような、鋭い痛み。
そしてそれに襲われる間隔は、段々と短くなり痛みも増している、と彼女は私に言った。
「今日はもう帰りましょう?私が送ってあげるから。ね?」
「う、うん。ありがとう、理央ちゃん。」
こう言うとき、私は何もしてあげられないのが凄く悔しい。
ただ昔からそうしてきたように、傍にいてあげるしか──。
翌日、千登勢は学校を休んだ。
先生曰く、風邪を引いたとのことだったが、昨日の今日であるために、私は嫌な予感しか感じなかった。
「理央ちゃん、ちーちゃんが心配なの?」
上の空で自分の席に座り込む私の顔を覗き込みながら、花香は言った。
「…うん。何か昨日、凄く辛そうにしてたから…。」
「辛そうにって…発作が出てたの?」
黙って私は頷く。
花香も千登勢の持病の事は知っていた。
と言うより、クラスの皆が知っていることだった。
だから皆、千登勢には優しく接していた。
「そっかあ、じゃあ心配だよね…。先生は風邪だって言ってたけど…。」
「…。」
「理央ちゃんさ、ちーちゃんの発作がただの病気によるものって思う?」
私はその突然の問いかけに、顔を伏せる。
私も薄々、そんな気はするのだ。
医者ですら原因の解らない病気。
よっぽどの奇病である可能性もあるだろう。
けれども私には、何故かそんな気はしなくて──。
かといって、じゃあ何が原因なのか、さっぱり見当もつかない。
「私はね、何か変なものが憑いてるんじゃないかなーって思うんだけど。」
「…花香、あんまりそういうことは言っちゃいけないって、言ってるでしょ。」
彼女はいつからか、オカルトに傾倒しているふしがあった。
去年の夏、仲の良かった妹を失ってから…そうなった気がする。
花香には、病弱な妹がいた。
姉とは真逆で、千登勢みたいに気弱な子だった。
それが父方の実家に行った際、そこの湖で溺死したのだという。
クラスの皆は、病気を苦にしての自殺だと囁きあっていた。
…私はそうは思えないけれど。
兎に角、そんな事情もあってか、彼女はそう思ったのだろう。
「でも、どんなお医者さんにも解らないんじゃさ…。駄目元でも、そっちの人に頼ってみても良いんじゃない?」
「そっちの人…?」
「昨日言ったさ、後輩のマネージャーの子。その子の更に後輩の子の友人の保護者が、そういう仕事やってるんだってさ。」
私は因みに、心霊とかはあまり信じていない。
かといって、明確に否定できるほどではないが。
「でも…。」
「だから、駄目元でさ。何もやらないよりは、良いと思うよ。」
彼女のその推しに押されて、私はゆっくりと頷いた。
確かに花香の言うことにも一理ある。
やるだけやってみることも、大事だろう。
「よっし、決まりね。それじゃくーちゃん、入ってきていいよー。」
花香の言葉と、ぱちんと指を鳴らす音に応えて教室の扉が開く。
そして入ってきたのは、小柄な女の子だった。
笑顔の似合う、可愛らしい子だ。
「紹介するね。こちら、後輩の東空華ちゃんです。」
「初めまして、相良先輩。先輩のことは、吉野先輩から常々聞いてました。」
そう言って、行儀よくぺこりと頭を下げる。
私もそれに釣られる形でお辞儀をした。
「それで、そちらの事情も聞いてます。早速本題に入りますけど、その後輩というのは、日諸中学の子でして。堀野美琴って子なんですけど…。」
日諸中学。
私もそこの出身だ。
というより、この高校に来るのは大体そこの出身である。
田舎ゆえの事情である。
「その子がよく話してくれるんですよ。友人の保護者、原江宮比さんって方が心霊関係の仕事をしているらしくて。もし杉野先輩の発作が霊とかの仕業であるなら、その方に見てもらえば何か解るかも…と。」
こういうのも何だが、なんとも現実味のない話をしているものだ。
普段ならまずしないだろう話題。
でも、それにすがってしまいたくなるほどに、私は追い込まれていた。
「…その人の連絡先とか、解る?」
「はい、聞いて書き留めておきました。こちらがその紙です。」
彼女の差し出した紙を私は黙って受け取る。小綺麗な字で、番号が書かれている。
千登勢の為にここまでしてくれたという事が、素直に嬉しい。
「…ありがとう、二人とも。」
「お礼なんていいって。私たちもちーちゃんに元気になって欲しいんだから。」
そして私に笑いかける花香。
彼女は多分、今の私の気持ちがよくわかるのだろう。
まるで本当の家族のように接してきた千登勢を心配する、私の気持ちが…。
放課後、私は褄吾島へと来ていた。
その存在は知っていたが、来るのは初めてだった。
なんだかそこはかとなく、陰鬱な雰囲気の漂う場所だ。
今日も部活を休むことになってしまったが、千登勢の事を思えばそんなことは関係ない。電話で聞いた場所、原江と表札の掲げられた家の前に立つ。
「すいません、電話をした相良ですけど…。」
呼び鈴を鳴らしつつ家の中に声を掛けると、扉が開いた。
「ああ、あんたが相良サンか。取り合えずまあ、上がってくれや。」
出てきたのは、この場所に似つかわしくないとさえ思える若い女性。
美人ではあるが、なんとも粗野な口調だ。
居間と思しき部屋に通され、向かい合って座る。
こういったものに馴れてない私は落ち着かず、座り心地が何となく悪い。
「それで、話というのはなんだぃ。」
「あ、はい…えっと、私の友人の話なんですけれど…。」
私はとりあえず、事情を説明する。
千登勢のこと。
その発作のこと。
そして今日彼女が休んだこと。
原江さんはただ黙って私の話を聞いていた。
そしてそれが終わると、何事かを考える仕草をして言う。
「…まだ、なんとも言えないな。その子の容態を見ないことには…。」
それはそうだろう。
私だって話をしただけで解決するなんて、微塵も思っていない。
だから私は、千登勢の家に前もって見舞いに行くとの電話をしていた。
「それで、その見舞いに同行してもらおうと…。」
私がその提案をしているとき、不意に部屋の扉が開く。
私と原江さんの視線が同時にそちらへ向けられる。
「おい宮比、見ろよこれ。さっき壺の中覗いたら蟷螂の蠱毒が出来ててよ。これを使えばお前も魔性の女に…」
強面の男性が、蟷螂を片手にそんな事を言いながら入ってきた。
そして私を見て固まる。
「あ、悪い。客来てたのか…。」
「和男、どうしてお前はいつもいつも…。まあ良い、今回は不問にしてやる。ちょっと耳貸せ。」
この二人はどういう関係なのだろう。
まさか、夫婦…?
「なんの話をしてたんだ?」
「この子の友人が病気らしいんだが、聞く限り何らかの憑き物である可能性がある。それはお前の専門だから、お前がいってやれ。」
てっきり原江さんがくるのかと思ったら、どうやらこの男性が付き添うらしい。
…この人を見たら、千登勢は驚いて発作起こすんじゃなかろうか。
そんな不安が無くもない。
「でも、俺この後…。」
「本来の案件は、後回しでも良かろう。その子の命がかかってんだよ。」
二人は何事かひそひそと話し合っていたが、纏まったらしく揃って顔を此方に向ける。
「まあ、てなわけでこいつが相良サンに同行するから。顔は兎も角悪いやつじゃないから、そこは安心してくれ。」
「はあ…。」
無駄な不安が増えた私は、ただそう答えるしかなかった。
そんなこんなで私と男性…茅輪さんは千登勢の家の門の前にやって来た。
「うへ、随分な豪邸だな。金持ちなのか?」
「あ、はい。彼女の父が会社の社長でして…。」
詳しくは知らないが、IT関連の会社を経営しているらしい。
中々の規模を誇り、千登勢の父は一代でのしあがったことでその業界では結構名の知れた人だそうだ。
「へえ、一企業の社長が住まう町とは…。やっぱり違うな。」
「兎に角、入りますよ。」
何度か千登勢の家には来たことがあるから、今度は気が楽なものだった。
ただ、同行者がいることを除いては。
家の中に入ると、千登勢のお母さんが出迎えてくれた。
「あら、理央ちゃん。わざわざお見舞いに来てくれて有り難うね。あの子急に倒れちゃって、例によって医者は原因が解らないらしくて…。」
「いえ、そんな…。」
「それで…そちらの方は?」
「あー、俺は茅輪和男と言いまして、そのー。」
「あ、私の親戚の兄でして。偶々来ていたのですが、お見舞いに行くことを言ったら是非同行したいと!」
なんとも苦しい言い訳だが、咄嗟の事これしか思い浮かばなかった。
千登勢のお母さんは少し怪しんだようだったが、それでも中へ入れてくれた。
「おい、その子の部屋は何処に有るんだ?」
「三階ですよ。付いてくれば解りますから。」
妙に長い階段や廊下を進み、千登勢の部屋の前に来たとき、その部屋の扉が開いた。
そして、その中から出てきたのは、千登勢のお父さんだ。
「あ…こんにちは、お邪魔してます。」
「…。」
私の挨拶には返事をせず、ただ私と茅輪さんを交互に見る。
どうも私は、この人が苦手だった。
厳しそうな感じなのはまだしも、何処か闇のあるというか…。
上手く言葉にできないが、初めて会ったときから苦手意識は抜けない。
「あの…。」
「今、千登勢は寝ている。」
「え?」
「それでも良いのなら…入るがいい。」
それだけ言って、千登勢のお父さんは去っていった。
「何だか、気難しそうな人だな。あれ社長?」
「え、ええ、そうですが…。」
千登勢の看病をしていたのだろうか。
父として、優しい一面もあるのかな。
そんなことを思いながら、私は部屋の扉を開く。
「うおわ、これで一部屋かよ…。家の3分の1はありそうだな。」
…初めてここにきた私とほぼ同じ反応なのは置いといて。
奥のベッドの中で、千登勢は小さな寝息を立てていた。
ただ、妙に血色が悪く、その事がより 私の不安を掻き立てる。
ふと、茅輪さんを見ると、鞄から何やら取りだし、何かの準備をしている。
「何やってるんですか?」
「何って…茗荷の根を煎じる準備だよ。これで原因が解るかも知れないんでな。」
持ち運びの出来る小さなコンロに土瓶、ペットボトルの水と茗荷の根、そしてスポイト。
彼が取り出したのはそんなものだった
一体何を始めるのかは解らないが、私はただそれを見ていることしかできない。
やがて煎じ終わったのか、土瓶をコンロから外す。
それを敷いた布の上に置いて蓋を開け、そこからスポイトで湯を少量、吸い上げた。
「…それをどうするんですか?」
「これを彼女に飲ませるんだよ。」
スポイトの先を千登勢の口の中に入れ、中身を一気に押し出す。
…一体これでどうなるというのか。
暫くは何の変化もなかったが、突然千登勢が苦しみだした。
「ちょ、ちょっと、大丈夫なんですか!?」
「大丈夫だから黙って見てろって!」
小声で、けれども強い語気でそう抑え込まれる。
仕方なく様子を見ていると、やがて信じがたい事が起こった。
千登勢の皮膚の直ぐ下を、何かが這い回っている。
それもかなりの速度で。
うねうねとして、細長いこれは…。
「へ、蛇…!?」
紛れもなく形は蛇だ。
私の知るものよりは随分と小さいが。
目の前の信じがたい光景に、私はただ立ち尽くす。
茅輪さんも動かない。
やがてその蛇らしき物も千登勢の体の中奥深くに潜り込んだのか、見えなくなる。
そして、漸く茅輪さんは口を開いた。
「…ちっ、最悪だ。」
とても小さな、呟きだった。
けれどもそれは、私には天雷の如く響いた。
最悪。
それはつまり、千登勢は助からないってこと…?
「…さっきの、社長の所に行くぞ。」
「え?」
言うなりさっさと部屋から茅輪さんは出ていく。
私もそれに遅れないよう、慌てて後を追った。
千登勢のお母さんから話を聞くと、どうやら自分の部屋にいるらしい事が解った。
その場所を聞き出し、急いでそこへと向かう。
その間、茅輪さんが一言も喋らない事がとても辛くて──。
最悪の結果だけを、脳裏に思い浮かべてしまう。
「…なんだ、いきなり。私に何か用か?」
ノックもせずに茅輪さんが部屋に入ると、千登勢のお父さんは机に向かって書き物をしていた。
その無礼さを咎めるでもなく、極めて冷静に言う。
「ああ、あんたの娘の事で話があってな。あの子には、厄介なもんが憑いてる。それが病気の原因だ。」
「…。」
ペンを持つ手が、一瞬止まる。
けれどもまた直ぐに続きを書き始める。
「…君は一体、何者だね。何を根拠にそんな事を言う?」
「俺は四国高知で憑き物を落とす仕事をしてる、茅輪和男ってもんだ。以後宜しく。」
「憑き物を、か…。成る程。」
そこで漸くペンを置き、椅子を回してこちらへ向き直る。
「だが、そんな肩書きでは信用出来んな。…私は千登勢に、何が憑いてるか知っている。その名前を当ててもらおうか。」
俄には信じられない台詞だった。
何が憑いてるか知っている…?
この人は、千登勢の病の原因をずっと知っていたって事…?
私はただ、茅輪さんの顔を見る。
その言葉に驚いた様子は無く、ただ真っ直ぐと千登勢のお父さんを見据えている。
「…あれは俺が見るに“蝕蝮”と言う蠱毒だ。」
ムシバミ。
茅輪さんの口から出た、その名前。
千登勢のお父さんは目を瞑って聞いていたが、やがて目を開いて頷いた。
「ほう…正解だ。君はどうやら、信じるに足るようだな。」
もう私には、訳が解らなくなってきていた。
ムシバミとは何なのか?
何故千登勢のお父さんはそれを知っていたのか?
謎なことが多すぎて、話が飲み込めない。
「茅輪さん…ムシバミって何なんですか?」
「蝕蝮はその名の通り、ハミの蠱毒だ。ハミってのはマムシの事で、遅効性の蠱毒として知られている。」
確かにあれは蛇だったが、マムシだとは気付かなかった。
マムシなんていう毒蛇が千登勢の体の中にいたなんて…私はいてもたってもいられなくなる。
「ど、どうすれば除けるんですか?」
「…悪い、その前に一つ聞きたいことが有るんでな。ちょっと待ってくれや。」
そう言って再び千登勢のお父さんの方へ向き直る茅輪さん。
その鋭い目付きで睨み付けているようだ。
「あの蝕蝮のことだが…本来はあんたの妻に憑いていたもんじゃないのか?」
「………そこまでお見通しか。益々、君を信じざるを得ないようだ。」
溜め息を吐き、観念したかのように言う。
そしてあの蝕蝮が憑いた経緯を語り始めた
今の彼の妻と知り合う前に、付き合っていた女性がいたと言う。
長年の交際の末に、別れたのだそうだ。
そしてそのあと直ぐに妻と知り合い、付き合い始め、結婚した。
やがて長男が生まれ、次男が生まれ…幸せの絶頂という時、一つの事件が起こった。
路上で妻が何者かに襲われ、気を失って倒れていた所を発見されたらしい。
怪我は軽く、体にもなんの異常も認められなかった。
だが、ある日別れた筈の女性が訪ねてきた。
そして、彼に言った。
その妻に“蝕蝮”という蠱毒を憑かせた、と。
遅かれ早かれ、彼女は死ぬ運命にある。
だから別れて寄を戻せと、そう要求してきた。
元々彼が一方的に振った形であったので、彼女は納得してなかったのだ。
最愛の妻を襲われておいて、その要求を呑む筈もない。
力任せに、家から追い出した。
最初のうちは妻も健康であるようだったので、狂言だと思い込んでいた。
しかし直ぐに彼女は胸の痛みを訴え始めた。
それを聞いたとき、真っ先に蝕蝮のことを思い出したという。
「それからは、今の千登勢と同じように痛みの間隔が短くなっていってな…色々と、必死になって蠱毒を落とす方法を探したよ。怪しげな物を高値で買ったりしてな。どれも、無駄だったが…。」
遠くを見るような目をしながら、千登勢のお父さんは言う。
初めて見るような、悲しげな表情をしていた。
「…その、別れた方の女性はどうしたんですか?」
「死んだよ。その追い出した日の内に、駅で身を投げてな…。一体どこであんな蠱毒の作り方を知ったんだか、今となっては知る術もないが…。」
恨みとは、かくも恐ろしいものか。
死して尚、人を苦しめるなんて…。
「あと、何でお母さんから千登勢に蝕蝮がうつったんですか?」
「…それは、彼の口から言って貰おう。どんなに手を尽くしても蠱毒を除けず、追い込まれた私の取った愚かな行動を。」
茅輪さんを見つめながら、千登勢のお父さんは言った。
私も彼の方を見る。
それに応えるようにして、茅輪さんは語り始めた。
「“産み落とし”という、憑き物を落とす方法がある。自らの胎内に宿した子に、蠱毒を移すんだ。ただ、状況はかなり限定される。遅効性の蠱毒かつ女性のみが出来る方法で、移る確率も高くはないけどな。蠱毒を移された子供は産まれると同時に秘密裏に殺されたという記録もある非情の毒抜き…それで産まれたのが、彼女なんだろう。」
「…そうだ。いつ、誰に聞いたのかは忘れたが、私はその毒抜きの方法を知った。もう万策尽きた私には、それしかなかった。顔も見知らぬ我が子より、何より愛する我が妻の命を…私は取ったのさ。」
千登勢がただその為だけに産まれてきた存在であったこと。
あまりに、あまりにそれは私には衝撃的な事実だった。
「産まれた子には、出来るだけ情を掛けないつもりだった。いつか来るだろうその日の悲しみを、極力減らそうと…でも、千登勢の顔を知り、性格を知り…あの子の事を知れば知るほどに、親としての愛情がどうしようも無く出てきてしまってな…。ずっと取り除く方法を探してきたが……君は蝕蝮を、取り除けるか?」
茅輪さんを見つめるその瞳が、いつのまにか涙に濡れていた。
「ああ、ある。その為に俺は此処に来たんだからな。」
力強く頷き、そう答える。
会って初めて私には、茅輪さんが頼もしく思えた。
後、再び私たちは千登勢の部屋に戻る。
今度は千登勢のお父さんも同伴している。
どうやって蝕蝮を除くのだろうと見ていると、茅輪さんは先程と同じようにして湯を沸かし始めた。
「また茗荷の根を煎じるんですか?」
「いや、茗荷の根じゃあ蠱毒を完全には除けない。今度はこれを使う。」
鞄から取り出されたのは小さな薬包紙だった。
更に小さな文字で“蛞蝓”と書かれている。
「ナメクジ…?」
「蠱毒の消し方として、相対する蠱毒でもってそれを打ち消す方法がある。今回は蛇の蠱毒だから、蛞蝓の蠱毒を使うんだよ。三竦み知ってるだろ?この蛞蝓を乾燥して粉にした物を飲ませる。」
「知ってますけど…それだけで良いんですか?」
思ったよりも簡単そうな方法なので、逆に心配になる。
それに対して茅輪さんは更に説明を続ける。
「蠱毒ってのは一つの容器に百種の虫を入れて作る。蛇や蛙何かも入れてな。それはつまり、最終的に何が生き残るか解らないってことだ。狙った蠱毒が出来るとは限らないんだ。一番作りやすいのは蛇で、その次が蛙…後は蜘蛛や蟷螂が出来やすいな。」
「はあ…。」
「それに対して蛞蝓は殆ど出来ない。蛇の蠱毒は数あるが、それを消せる薬としての蛞蝓の蠱毒は絶対的に少ない。これが蛇の蠱毒を消しにくくしている理由さ。」
言いながら薬包紙を開き、中の粉を沸かしたお湯の中へ溶かしていく。
「俺も何百と蠱毒を作ってきたが、蛞蝓のが出来たのは僅かに3回ほどだ。」
出来たものをスポイト吸いとり、千登勢の口へと移す。
暫くして千登勢は先程より苦しみ始め、皮膚の下を蠢く蛇の動きもより激しいものとなる。
それは出口を求めたのか、首筋を上がっていき、そして口からぬるりと滑り落ちるようにして出てきた。
茅輪さんはそれを逃さず、いつの間にか手にしていた瓶のなかへと入れる。
「これでよし、と…。」
すかさず蓋をして完全に蝕蝮を封じ込める。
行き場を失ったそれは、ただ瓶の中で這い回っていた。
血赤色の小さな蛇。
それが長年千登勢を苦しめてきたのだと思うと、憎らしくて仕方がなかった。
「…終わったのか?」
沈黙を保ってきた千登勢のお父さんが言った。
「ああ、元凶は取り除いた。出来ることはしたよ。」
「…約20年、そいつを取り除く方法を探してきたが、終わってみると呆気ないものだな。最後に一つ、良いか?」
ベッドの方へと歩み寄り、千登勢の顔を覗き込む彼。
暫くそれを眺めてから、言った。
「この子はあと何年、生きられる?」
「……そうだな、長くて10年。短ければ3、4年だろう。」
全てが終わったと思っていた私は、彼等が何をいっているのか一瞬解らなくなる。
「え?…な、何を言って…だって、蝕蝮は取り除いたんじゃ…。」
「…蝕蝮はその名の通り、宿主の命を蝕むんだよ。除くまで、時間が掛かれば掛かるほどに、取り返しのつかなくなるまで命を削られる。取り除いたとしても、長生きできないのがこの蠱毒の恐ろしいところなんだ。」
とても辛そうな顔をして、茅輪さんは言った。
私は脱力して床に座り込む。
千登勢のお父さんは一回優しく千登勢の頭を撫でた後、部屋から出ていく。
「今はただ、君に早く会えなかった巡り合わせの悪さと、私の愚かな行動を恨むとしよう。…茅輪と言ったか、今日は本当にご苦労だった。」
出掛けに、そんな言葉を震える声で言いながら。
私は千登勢を見る。
先程よりずっと血色の良くなった顔。
そして、安らかな表情をしながら、ただ眠っていた。
「千登勢…。」
そう呼び掛けるも、寝ている彼女には届かない。
私は暫くの間、静かに泣き続けた。
千登勢が学校に来たのは、それから2日程してからだった。
私に会うなり、胸の痛みが無くなったことを笑顔で教えてくれた。
「いやーほんとに心配したよ、ちーちゃん。元気になって良かった良かった。」
心底安堵したような声で、花香が言う。
彼女もずっと、千登勢の身を案じていたのだ。
「ごめんね、二人とも。でももう、私は大丈夫だから…。」
少し恥ずかしげに顔を赤らめながら、笑顔を作る千登勢。
それを見ると、私の心は少し痛む。
当然ながら、あの時の三人以外に真実を知るものはいない。
言う筈もなく、言える筈もない、残酷な真実。
それでも私は、彼女と沢山の楽しい思い出を、作っていくつもりだ。
彼女の父がしようとしたように、現実から目を背けることもなく…
いつか来るその日を、精一杯悲しめるくらいに──。




