6話 話
「ごめん、気づいていなかった。」
凛は表情を工夫して、なるべく申し訳なさそうな感じにした。兄はしばらく口を尖らせて文句を言っていたが、許してくれたらしい。二人で近くのベンチに座りに行った。花壇の花が綺麗に咲いている。
「これ、お土産。」
兄から渡されたのは、ストライプ柄の小さな小包だった。リボンを外し、包装紙を取ると、小さなテニスボールぐらいのスノードームが現れた。中には小さな自由の女神が堂々と立っていて、木の台には金色の文字で「NEW YORK」と書いてある。凛の部屋に飾ったらカッコ良さそうだ。兄はセンスがいい。
「ありがとう、お兄ちゃん。ところで、話って何?」
凛は昨日から不思議に思っていたことを聞いてみる。兄がわざわざ日本に来てまで凛に対して話したかったこととはなんだろう。兄は凛のことをまっすぐに見つめて、口を開いた。
「凛、お前、野球はしているのか。」
凛にとって予想外の質問だった。てっきり、自分の近況を報告するとか、凛の学校での様子を聞くとか、そんなものだと思っていた。野球のことを聞かれるなど思ってもいなかったが、確かに、あの日大喧嘩した後、凛のことを想う兄なら、ある程度心配したかもしれない。
野球はキッパリ辞めた。あの日以来。野球なんて、今しているわけがない。
「ううん、していない。」
兄にとって予想外の答えだということは、凛からみてもわかった。結構衝撃を受けたらしい。兄は深いため息をついた。
「なんで辞めたんだ?」
兄は、凛のことを責めるように聞いてくる。凛が野球を辞めたきっかけは兄が作ったくせに。なんだか理不尽に怒られた気がした。
「お兄ちゃんが夢を諦めたから、野球を辞めた。」
小さい頃は絶対になると自信を持って凛に言っていたくせに、ずっと約束をしてきたくせに、夢を叶えるために二人で活躍して有名になったくせに、兄がずっと夢見ていた大リーグ入りを果たしたくせに。凛との忘れて夢を諦めた兄が悪いんだ。
「なんで、そうやって他人事のように思ったんだ。俺は確かに夢は諦めた。それは悪かった。でも、お前まで夢を諦めて、ましてや野球をやめろなんて、一言も言わなかったじゃないか。」
兄は凛のことを睨みつけ、大きな声で怒鳴った。近くにいた1羽の鳩が驚いて飛んでいった。凛は兄にきつい言葉を散々言われて、かっとした。そして、凛は立ち上がって、大声で言い返した。
「俺はお兄ちゃんに憧れて野球をしたんだ。だけど、お兄ちゃんが夢を諦めたから、俺が野球をする意味がなくなったんだ。俺が悪いみたいに言わないでよ。」
しばらく沈黙が続いた。噴水の音がかすかに遠くから聞こえる。兄の顔を見てみる。哀しそうだ。あの時、喧嘩した時と同じ顔だ。凛は少し冷静になってベンチに座り、凛が兄に大声で怒ったことを反省した。
「っ、ごめん。」
「いや、いい。」
そうは言っても、兄の顔は暗い。また、沈黙が流れた。
「今日はわざわざ来てくれてありがとう。明日、俺はまたアメリカへ帰るから、これからも頑張れよ。」
兄は少し微笑んだ。寂しそうな微笑みだ。凛は心配に思ったが、兄は荷物を持ち、ベンチから立ち上がった。これから市内のホテルに行くらしい。
「ホテルまで見送りしてあげようか?」
「大丈夫だ。ありがとう。」
いよいよ兄と別れる時に、凛はあることを思い出した。あの夢のことだ。幼い頃の凛はあの少女の記憶はないが、年上の兄なら知っているかもしれない。
「ねえ、お兄ちゃん。」
帰ろうとしていた兄は振り向く。
「なんだ?」
「この前、夢を見たんだ。とてもリアルな夢だったんだけど、夢の中に少女が出てきたんだ。その少女は、遥にとてもそっくりで、瞳の色が俺とお兄ちゃんと同じだったんだ。幼稚園の頃の俺を庇って怪我をしたんだけど、俺は無意識に『お姉ちゃん』って呼んでいた。」
少し強い風が吹き、髪の毛が乱れた。
「俺にお姉ちゃんっているの?」
一瞬時が止まったかのような感覚がした。遠くから路面電車が走る音がする。
兄は少し戸惑ったような顔をした。でも、すぐ元通りの顔に戻り、凛に向かって言った。
「凛、お前に姉など存在しない。」
それから兄は後ろを向き、階段を降りて去っていった。まだ咲いていた桜の花びらが2枚舞い降りた。
凛は、平和祈念像の横の道を抜けて、家に向かった。夢の中の少女のことについて聞いた時の、兄のほんの一瞬の戸惑った顔が忘れられなかった。凛はなんとなく感づいていた。兄はあの少女を絶対知っている…。




