7話 ゆびきりげんまん(前編)
空がだんだん夕焼けに染まりつつある。凛は坂道を通り、家に向かう。長崎は結構坂道があるので、だいぶ大変だ。
横断歩道を渡る。すると、凛の母校、山鳩小学校の門が見えた。古そうで立派な石でできた門を見て、凛は脳裏に幼い頃の記憶が蘇った。その場所は、かつて、凛が兄と約束をした場所だった。
「お兄ちゃん、何しているの?」
夏の暑い日だった。蝉の声があたりに響き、太陽がジリジリと照らしてくる。小学校に入ったばかりの凛は、小学5年生の兄に声をかけた。兄は白いボールを手にして投げている。
「野球の練習をしているんだ。」
兄は額の汗をタオルで拭い、笑いかけながらそう答えた。
「野球?」
凛は兄が投げたあと、転がってきたボールを手にした。白い革に赤い糸で模様が縫われている。少し土がついて汚れていた。
「野球ってのは世界で一番面白いスポーツだ。グラウンドに立ってボールを投げるピッチャーの華麗な姿といったらすごいよ。」
兄は瞳を輝かせていた。
「ピッチャーってバットは振らないの?」
凛は前に兄と野球を観たことがある。その時に大抵の選手はバットを振っていた。
「バットは振らないよ。でも、グラウンドの中央に立って綺麗にボールを投げるってかっこよくない?」
兄は持っていたボールをバッグへしまう。兄はそろそろ帰るらしく、グラウンドを片付けていた。
兄と一緒に家へ向かう。野球ってどんなスポーツなんだろう。凛はとても興味津々だった。
「俺はメジャーリーグへ行って、世界一のピッチャーになってやる。絶対なってやる。」
兄はいつもとは違う感じ、真剣で希望が溢れていた。
「絶対なるの?」
「ああ、絶対なってみせる。もしならなかったら、針千本飲んでやる。」
「針千本?」
針を本当に千本飲むのか、と首を傾げていた凛に兄は優しく教えてくれた。
「『ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本飲ます』って言ってお互いの小指を絡めて約束をしたら、絶対約束を守らないといけないんだ。」
そして兄はニヤッと笑って、
「もし破ったら針千本飲まないといけないんだ。」
と意地悪そうに言った。凛は素直だったので、本当に針千本も飲むのかと思うと背筋が凍ってしまった。兄は凛の反応をみて笑ったのち、優しい眼差しで
「冗談だって。」
と凛に微笑んだ。凛はほっとして、胸を撫で下ろした。
「じゃあ、ゆびきりげんまんしようよ。」
凛は兄の服の裾を掴んで言った。兄はにっこりと笑った。
「じゃあ、そうしようか。」
兄は凛の目線の高さまでしゃがむと、左手を差し出した。凛が右手を差し出すと、兄はあちゃっ、という顔をして、左手の代わりに右手を差し出した。
「俺はメジャーリーグに行って、世界一のピッチャーになる。」
そして、二人の小指を絡ませた。
『ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本飲ます!』
太陽が眩しく輝く。太陽の明るい光が石の門にある金色の「山鳩小学校」の文字を照らした。桜の木が風に揺られて、凛たちに涼しい風が流れ込んできた。
兄はあの約束をした日から、野球にいっそう専念するようになった。凛も兄に憧れて野球を始めた。兄はピッチャーなので、凛はキャッチャーになり、兄弟バッテリーとなった。地元の名門の野球チームに通いながら野球の腕を磨き、凛が中学生になる頃には全国で名前が知られるようになった。
兄は豊燈高校に入学し、野球部に入部した。弱小校なのに、と凛は思ったが、兄曰く、この学校を強豪校にして大活躍したいらしい。兄が出る試合は雨が降ろうが、調子が悪かろうが、絶対行った。兄の美しい投球を見るたびに、兄への憧れは強くなっていった。
兄がアメリカへ旅立つ日がやってきた。兄の活躍は日本中に知れ渡り、アメリカの大リーグ強豪チーム、ニューヨークヤックスと契約を結んだ。マネージャーと共にアメリカへ行って、そこではピッチャーとして頑張るつもりらしい。
凛の家族は、兄の見送りをしに、長崎空港まで来た。兄は羽田空港を経由してアメリカへ飛行機で行くらしい。父は単身赴任中だったが、この日のためにわざわざ長崎まで戻って来てくれた。まだ病気ではなく元気な母が、兄の荷物を入念に確認する。
「パスポートはある?何かあったら絶対連絡してね。」
兄は笑いかけながら、
「大げさだな、大丈夫だよ、しっかり準備したから。」
と言った。母は荷物の確認をやめ、元の位置に戻った。
「頑張るんだぞ。」
父は兄を励ました。凛も兄の元へ行った。
「お兄ちゃん、ピッチャー、頑張って!」
憧れの兄へ凛は激励した。兄は、保安検査場の方へ行く。そして最後、通過する前に家族の方を向いた。
「いってきます。頑張るよ、凛。」
凛たちは笑顔で兄を見送った。兄の大活躍を聞くのがとても楽しみだった。
兄がニューヨークヤックスに入ったことはテレビでも放映されて、世間でもとても話題になった。ニューヨークヤックスは元々日本人選手が多数在籍しているため、兄は楽しく過ごしていた。
半年ほど経った。兄を見送った時には桜が満開だったのに、今では暑い夏が過ぎ、少し葉が赤く色づいていた。凛はいつも通りテレビをつけて、スポーツニュースを見ていた。野球のニュースに移り変わった。
「大リーグです。漆舘漣選手がニューヨークヤックスに所属してから半年になりました。現在もチームで大活躍しています。」
その瞬間画面が変わり、兄のプレーが映された。凛は一瞬自分の目を疑った。
「漆舘選手はバッターとして、今回の試合もチームの勝利に貢献しました。」
凛は見間違い、聞き間違いだと思った。それほど信じられなかった。あれほど
ピッチャーになると意気込んでいた、憧れの存在であったあの兄がグラウンドに立っていた。左手にはグローブはなく、代わりにバットがあった。
『ピピピピ…。』
電話の着信音が鳴った。凛は電話を手に取った。
『もしもし、明日日本に帰ってくる。凛に話さないといけないことがある。』
凛はじわじわと沸いてきた怒りを必死に堪えた。そして、電話を置き、かばんを取って、さっさと学校へ向かった。
「凛ちゃん?」
凛の異変に気づいた遥が心配そうな顔をしていた。




