3話 兄
「なんで、いるんだよ。」
凛はぼそっと呟く。今、この日本で、漆舘漣の名を知らない人はいない。彼は、その誰もが魅了する投球で、甲子園で弱小校であったこの豊燈中学校・高等学校を優勝させるという、甲子園の歴史に名を残した天才野球選手である。その後、アメリカへ渡り、MLBでとても知名度が高いニューヨーク・ヤックス(New York Yaks)とプロ契約をして活躍し、さまざまな記録を更新している。彼の野球の才能は、野球ファンだけではなく、世界中の人々を虜にしている。
凛にとって彼、漆舘漣は、4年違いの兄である。同じ学校に通う年はほんの数年しかなかったが、小学1年生ごろの幼い凛と一緒に当時5年生だった兄は一緒に学校に行った。兄は、幼い頃から野球が好きで、弟の凛によく野球を教えてくれた。野球の試合を見に行ったことがあったが、彼が投げるストレートのボールが美しくて、それ以来、凛にとって彼、漣は自分の唯一の憧れの存在になった。凛も野球を始めると、才能を開花させて、日本中で有名な兄弟のバッテリーになった。しかし、あの時以来凛は野球を辞めた。今では、憧れと同時に憎しみを感じる敵である。漣を見ると、過去に大喧嘩した時の複雑な思いが心の内側から出てきて、とても憎らしくなる。いい思い出もあったが、中3の夏に会った思い出が今でも悔しくて、正直凛はこの晴々とした舞台でそのようなことは思い出したくない。
校長先生の話があった後、式は終わって今日は解散になった。生徒や保護者が席から立ち上がり、多くの人が体育館から出ていって、帰路についた。凛も早く帰りたいと思い、人混みに紛れて帰ろうと思って体育館の扉から出たところで、誰かに腕を掴まれた。
凛は振り向く。腕を掴んだ人の正体は、兄の漣だった。
「今日はこれから用事があるからできないけれど、明日少し一緒に話さないか。」
兄から話したいことがあるとはなんだろう。兄と直接会うのは1年ぶりだ。アメリカで仕事もあるだろうに、日本までわざわざ来て話すこととは、それほど大切なことなのか。
「うん、平和公園でいい?」
兄はこくんと頷いた。そしてニヤリと笑い、凛の後ろの方を向いて言った。
「それに、お前は今日先生から何か怒られそうだしな。」
凛がはっとして振り向くと、担任の暁月先生と遥が待っていた。遥は少ししょんぼりしており、隣の暁月先生を見ると、怒りを必死でこらえていることが誰から見ても分かった。
「ちょっと話があるけど、いいかな。」
先生が優しい声で凛に話しかける。しかし、心の中でどう思っているかは大体予想がつく。暁月先生は笑顔を装っているらしいが、見ている側にはもちろんバレている。
「…はい……。」
それから、凛達は別室に連れて行かれた。扉を先生が閉めると、先生が今まで我慢していた怒りが爆発した。
「あなた達、自分たちの大切な行事の集合時刻に遅れて、開式ギリギリに来るなんて、どういうこと⁉︎」
「すみません。」
2人で謝った。ここで言い訳をしても、状況はかえって悪くなるだろう。
暁月先生は鮮やかな赤色のメガネに、焦茶色の癖っ毛がある先生である。凛達が中学一年生の頃からお世話になっている先生だ。彼女の英語の授業はとてもおもしろいが、怒ると怖いという噂は前から聞いていた。今日、中高一貫の学校生活の中で、初めてその恐ろしい顔を見た。凛の母も怖いため、怒られることに関しては慣れているが、どうも遥は慣れていないらしい。とても怯えた顔をして、先生の説教を聞いている。
どれくらい時間が経っただろうか。ちらっと時計を見ると、もう30分近くは経っている。先生も怒ることがなくなって、
「分かりましたか、今日はもう帰ってよろしい。」
と言って、部屋から出ていった。
「暁月先生って、あんなに怖かったの…。」
遥にとってはとてもショックだったらしい。そして、ブツブツと
「凛ちゃんが寝坊なんてしなければ、こんな悲惨なことにはならなかったのに。凛ちゃんのバカ。」
と言った。凛は少し不満に思いながらも、申し訳ない気持ちで、
「…ごめん……。」
と謝った。遥は凛のことを許してくれたようで、笑顔で
「じゃあ、帰ろうか。」
と声をかけてくれた。
帰りに近くのファミレスに入って、お昼ご飯に洋食を食べた。ある程度満腹になったのちに、二人は電車に乗って帰った。
明日は、もっと早起きしなければ、学校に間に合わない。今まで春休みでずっとダラダラ過ごしていた凛にとって、それはとても苦痛だった。今日たっぷり怒られたのだから、明日は遅刻したくない。起きるのがめんどくさそうだが…。しかし、幸いなことに、明日は授業がなく、部活動紹介などの小さな行事ぐらいしかないらしい。その日は早く帰って、ゆっくりアニメを一気に見たいと思った。
暇なので、スマホを手に取り、画面を開く。通知が一通来ている。兄からだ。メッセージアプリを開いて、トーク画面を見る。
「明日会う時間をまだ伝えていなかったな。」
「明日の4時に平和公園でいいか。」
そういえば、明日何か兄から話があると言っていた。4時からでは、アニメが3話ぐらいしか見れない。文句を言いたいところだが、兄だって忙しい中来てくれたのだからしょうがない。トーク画面に「OK」と書かれてある紙を持った猫がそっけなさを見せている可愛いスタンプを送信した。
電車を降りて、帰路につく。少し夕方に近づき、空は茜色に染まっていた。隣で歩いている遥を見つめる。さっき平和公園の前を通った時についたのだろうか、桜の花びらが遥の髪についている。
「髪に桜の花びらついている。」
凛がそう声をかけると、
「えっ、取ってくれる?」
と言って、凛に近づいた。凛は遥の頭に触れ、花びらを取った。
すると、遥が凛の方を向く。二人の距離がとても近い。凛は少しだけ脈が早くなったような気がした。遥の可愛らしい瞳が凛を見つめる。そしてにっこり笑いかけて、
「取れた?」
と明るい声で聞いた。顔が赤く見えてしまうのは、夕焼けのせいだ。夕焼けで、頬が赤く染まってしまうんだ…。夕日にあたって赤くみえる桜の花びらを見せて、
「うん、取れたよ。」
と答えた。二つの影帽子がコンクリートにうつり、桜の花びらが舞い降りた。




