第9話 文化祭前夜
文化祭準備が本格化すると、二年二組では自然発生的に“真白がいれば回る”空気ができていた。誰かが困ると真白を見る。提出が遅れると真白に相談する。本人は望んでいないのに、中心にされる。便利だからだ。
「それ、もう半分事故だよね」
悠真はそう言ったが、真白は笑えなかった。事故なら、止め方が分からない。
文化祭前夜、装飾班と発表班のあいだで大きな揉め事が起きる。どちらも締切に追われ、相手が譲れば済むと思っている。教室の空気は以前の朝に似ていた。ただ違うのは、今度はみんなが最初から真白の言葉を待っていることだ。
「朝比奈、どうする?」
その問いに、真白は一瞬だけ黙った。前ならすぐに答えていた。誰に何を言えば動くか、もう分かってしまうからだ。だからこそ答えたくない。
「わたしが決めるの、やめよう」
教室が静まる。
「え?」
「だって、また“朝比奈が言ったから”で片づくでしょう」
「でも」
「でもじゃない。選ぶのはそっち」
そう言いながら真白は、何もしないわけではなかった。論点だけを並べる。締切、作業量、譲れる部分、絶対に譲れない部分。相手の言い分を短く整理し、誰の言葉も上から封じない。そのうえで、最後の決定だけは当人たちへ返す。
結果、時間はかかった。きれいには終わらなかった。途中でぶつかり、言い直し、謝り直し、ようやく折衷案にたどり着く。前の真白ならもっと早く終わらせられた。けれど今回は、それでよかった気がした。
「遅いし、ぐちゃぐちゃ」
真白が机に突っ伏すと、悠真が珍しく少し笑った。
「でも今日は、真白がいなくても回る形に近かった」
「最初からいたじゃない」
「答えを置かなかった」
その言葉に、真白はようやく少しだけ救われる。
一方で九条は、文化祭実行委員の側で完璧な統率を見せていた。混乱は少なく、判断は早く、誰も露骨には不満を言わない。見事だ。だからこそ真白は分かる。自分が恐れているのは、あの美しさだ。
夜、校舎の窓に映る自分の顔を見ながら、真白は思う。わたしはたぶん、人を動かせる。もうそれ自体は否定できない。でも、どう動かすかは選び直せる。九条みたいに全部を整えるんじゃなく、失敗や迷いが残る場所ごと守る。その感覚を、真白はこの回で初めて掴む。
前夜準備の校舎は、どこも少しずつ浮き足立っていた。段ボールの匂い、ガムテープの音、掲示物のずれを直す声。みんな忙しいのに、どこか楽しそうだ。だからこそ真白は余計に気づく。楽しい空気ほど、“誰が整えたか”が見えにくい。
二年二組では、装飾の最終確認が遅れたせいで再び小さな停滞が起きた。今度は誰かが真白を呼ぶ前に、理子が先に言った。
「朝比奈に振る前に、こっちで決める」
その一言に、真白は少し驚く。自分が答えを置かなかった分、周りの側も少し変わり始めているのかもしれない。
もちろん綺麗には進まない。誰かが言い直し、誰かが不満げに黙り、途中でまた話が戻る。それでも“朝比奈が言ったから終わった”とは違う時間が流れていた。
作業が一区切りついたあと、教室の後ろで悠真が紙コップを二つ持ってきた。
「おつかれ」
「珍しい」
「九話まで来たからサービス」
「メタいこと言わないで」
くだらないやりとりに少し笑ってから、真白は窓の外を見る。実行委員棟の方では、九条がまだ動いている。あちらはあちらで見事に整いすぎていて、見ていると不安になるほどだ。
「ねえ、悠真」
「うん」
「わたし、たぶん前より使ってる」
「言葉を?」
「……うん。でも、前みたいに何も考えずじゃない」
「それならいい」
「よくないかも」
「なんで」
「考えて使っても、結局、人は動くから」
悠真は少しだけ黙ってから、真白の方を向く。
「動くこと自体は、たぶん止められない」
「じゃあ何を止めるの」
「真白が最後まで決め切ること」
その言葉は、前夜の空気の中でよく響いた。真白はようやく、自分が選び直そうとしているものの輪郭を言葉にされる。人を動かすかどうかではない。どこまで握るかだ。文化祭本番を前に、その理解だけははっきり手の中へ残った。
前夜準備の後半、真白は一度だけ実行委員本部へ呼ばれた。予算表と配布物が噛み合わず、小さな混乱が起きていたからだ。
「朝比奈、ちょっと見て」
その呼び方に、真白は胸の奥が重くなる。見ればたぶん整理できる。整理できるから呼ばれる。その循環がもう出来上がっている。
けれど今回は、表を見たあとで真白はすぐに答えを置かなかった。
「数字がずれてるの、ここでしょ」
「うん」
「じゃあ最初に確認するのは、誰が入力したかじゃなくて、どの班の提出が最後だったか」
「それって」
「順番を見ればいいってこと」
原因も責任者も言わないまま、確認の順序だけを置く。すると本部の二人は自分たちで表を見直し始め、結局ミスは単純な転記漏れだと分かった。真白はそこで手を引く。
「もういい。あとはそっちで」
「助かった」
そう言われても、前ほど気持ちよくはなれない。助けたのか、ただ動かし方を知っているだけなのか、自分で線が引けなくなってきたからだ。
夜の校舎を出る直前、悠真が昇降口の段差に腰を下ろしていた。
「待ってたの?」
「うん」
「珍しい」
「明日が本番だから」
短い沈黙のあと、悠真は真白を見上げる。
「たぶん明日、みんな真白の言葉を待つ」
「知ってる」
「で、九条も待ってる」
「それも知ってる」
「だから先に言うけど」
悠真はそこで少しだけ強くなった。
「真白が全部きれいに収めたら、九条の思う壺だよ」
その一言が、前夜の最後に一番重く残る。真白は返事をしない。ただ、文化祭当日に自分が何をしないべきかだけは、ようやくはっきり分かった気がしていた。
前夜の帰り道、校門のところで理子と佐伯が真白に手を振った。
「明日、朝比奈が何も言わなくても回すから」
理子は冗談っぽくそう言い、佐伯も「たまには黙って見てろ」と続ける。
軽い言葉だった。けれど真白は、その軽さに少しだけ救われた。自分がずっと中心でなくても、ここまでの積み重ねは無駄ではなかったのかもしれない。
ただ、そのすぐあとで本部棟の窓に九条の姿が見える。ひとりで立っているだけなのに、明日の文化祭をもう半分終わらせたみたいな顔をしていた。
「……感じ悪い」
「分かる」
悠真は短く答え、それから真白の隣で立ち止まる。
「でも、あいつが強いのは本当だよ」
「知ってる」
「だから真白も、強くならないといけない」
「九条みたいに?」
「違う。九条が正しいかもしれないって思っても、そこに飲まれない強さ」
その言葉は、前夜の最後に必要な芯だった。明日から始まる終盤で、真白と悠真がただ九条へ勝つだけでは足りない。九条の正しさが少し見えてしまう場所まで行った上で、それでも別の結論を選べるかどうか。その問いが、文化祭の前夜にようやくはっきり形を持つ。




