第10話 文化祭をやめるべきだ
文化祭まで、あと三日だった。
校舎の空気は、表向きには浮き立っていた。廊下の壁にはクラスごとのポスターが並び、体育館の脇にはステージ備品が積まれ、昇降口には模擬店で使う段ボールが山になっている。どこを歩いても、絵の具の匂いと、ガムテープの粘る音と、誰かの焦った声が混じっていた。
なのに、その熱の下に、ぴんと張った膜みたいなものがあると、真白はずっと感じていた。
言い換えれば、みんな楽しそうな顔をしているのに、ほんとうに楽しそうではない。
誰かが失敗しそうになると、すぐに別の誰かが、「朝比奈さんに聞いた?」と言う。作業の手が止まると、「真白なら、どうしたらいいって言うかな」と口にする。何かを決める場面になると、そこに真白がいないだけで、空気が少しよろめく。
そのたびに、真白は胸の奥がむずがゆくなった。
別に、そんなつもりで話してきたわけじゃない。
早く終わればいいとか、揉めたままだと面倒だとか、その程度のことしか思っていなかった。そう思って口にした言葉が、結果として場を進めてしまう。それだけだ。少なくとも、少し前までの真白は、本気でそう思っていた。
けれど最近は、それだけだと言い切るのが難しくなっていた。
悠真に言われたからだ。
真白。
それ、正しいけど危ないよ。
あの短い忠告は、時間が経つほど、真白の中で嫌な形に育っていった。
教室の後ろで、二年三組の展示責任者が泣きそうな顔で名簿を見ていた。
「足りない……」
小さな声だったが、近くにいた何人かは聞いていたはずだ。それでも、誰もすぐには反応しない。自分に向けられた頼み事ではない限り、人は一拍遅れる。その一拍が二拍になり、三拍になると、もう口を出しにくくなる。
真白はたまたま通りかかっただけだった。少なくとも本人の認識では、ほんとうにそうだ。
「何が足りないの」
責任者の女子が振り向いた。顔色が悪い。
「午前シフト。二人抜けた。模擬店の仕込み、回らないかも」
「へえ」
真白は名簿を一度見た。空欄を埋めるペンの跡が何度も書き直されている。断られた跡だ、と分かる。
「男子の方、力仕事多いんでしょ」
「うん。でも、みんな自分のクラスもあるし……」
「だったら、力仕事が得意そうな子を探すより、朝早く来るのが平気な子に頼んだ方が早いわよ」
そう言っただけだった。
別に、「頼みなさい」と命じたわけではない。ただ、責任者の目線が名簿の一段下で止まったのが見えた。その名前の主は、朝練のある運動部で、朝が苦ではない男子だ。
「あ」
責任者が小さく言った。
「たしかに……」
そのまま彼女はスマホを取り出して、誰かにメッセージを送り始めた。
真白は、じゃあね、と言ってその場を離れた。
それだけのことだ。そう思う。
なのに、廊下の角を曲がったところで、壁にもたれていた悠真が顔を上げた。
「いまの」
「なによ」
「偶然で済ませるつもり?」
真白は眉をひそめた。
「通りかかったから言っただけだけど」
「本人は、朝練の子に頼もうって自分で思いついた顔してた」
「実際、自分で思いついたんでしょう」
「そう見えるように、順番を置いた」
言い方が、いちいち嫌だった。
「置いてないわよ」
「置いたよ」
悠真は感情を上げない。だからこそ、否定しにくい。
「真白は、空欄を見て、力仕事って言葉を一回受けて、それをいったん脇にずらした。で、朝早く来られる人に変えた。あの子が最初から見てた条件を別のものに入れ替えた」
「ただ整理しただけ」
「その整理で、結論が変わる」
真白は返事をしなかった。
前なら、はっきり言い返していたかもしれない。いまのは違う、そんな大げさな話じゃない、と。でも最近は、その否定が少し遅れる。
その遅れを、悠真はちゃんと見る。
「ぼく、別に真白を責めてるわけじゃないよ」
「責めてるように聞こえるけど」
「危ないって言ってるだけ」
真白はため息をついた。
「文化祭の直前に、そんなこと言わないで。みんな余裕ないの」
「だから言ってる」
悠真は静かに答えた。
「余裕がないときの言葉が、一番深く刺さるから」
その日の放課後、生徒会室前の掲示板に、一枚の紙が貼られた。
最初に見つけたのは一年生だったらしい。数分で人だかりができ、写真が撮られ、クラスのグループチャットに流れ、すぐに校内全体へ広がった。
見出しは大きく、太いマジックで書かれていた。
――文化祭をやめるべきだ。
本文はもっと冷静だった。
準備の負担が一部の生徒に偏っていること。
匿名で押しつけられた役割が増えていること。
“善意”の名のもとに断りにくい空気ができていること。
楽しさを理由に、疲弊や沈黙が見えなくなっていること。
どの一文も、完全な嘘とは言えなかった。
真白が掲示板の前に着いたときには、すでに教師が紙を外したあとだった。けれど遅い。文面は撮られて、共有されている。
「ずいぶん早いですね」
人の波の向こうから声がした。
九条絢人は、人混みの手前で立ち止まり、騒ぎそのものより、そこに立っている人間の顔を見ているようだった。
「君が最初に来ると思っていました、朝比奈さん」
「呼ばれてないけど」
「でも来た」
九条の口調は、相変わらず穏やかだ。穏やかなぶんだけ、言葉が冷える。
「このくらいの騒ぎなら、まだ小さい方ですよ」
「楽しそうね」
「そう見えますか」
九条は薄く笑った。
「わたしはむしろ、今からが本番だと思っています」
「犯人みたいな言い方」
「それはどうかな」
真白はその顔を見た。冗談を言っている顔ではない。けれど、挑発だけでもない。
「この紙に書いてあること、全部間違いだと思いますか」
真白は答えなかった。
間違いだと言い切れないからだ。
押しつけられた役割。断りにくい空気。善意の顔をした同調圧力。文化祭の成功を大義名分にした、便利な期待。
どれも、ここ数週間、真白が薄く感じ続けてきたものだった。
九条はその沈黙を見逃さない。
「美しい言葉ほど、人を逃がさない」
静かな声が、ざわめきの中でも妙によく聞こえた。
「誰も命令していない。なのに逃げられない。そういう状況が、いちばん責任を曖昧にする」
「だから、文化祭をやめろって?」
「やめるべきだ、と言いたい人間が出るのは当然でしょう。問題は、そこじゃない」
「なに」
「誰がその当然を見えないものにしてきたか、です」
真白の喉が、少しだけ詰まった。
そこへ、実行委員の一年が走ってきた。
「朝比奈先輩、職員室前に来てください! 二年の模擬店と三年のステージ、時間割がかぶって、すごいことになってて!」
頼まれているのは、ただの確認のはずだった。なのに、その口ぶりには最初から、真白が何とかする前提がある。
悠真が横に立った。
「行くの」
「行かないともっと面倒になる」
「その面倒を、みんな真白に返してる」
「分かってる」
「分かってるなら」
「でも、放っておけないでしょ」
その言葉は、少し強すぎた。真白は自分で気づいて、口を閉じた。
放っておけない。
それはずっと、真白を前へ押してきた理由だった。
けれど今は、その言葉自体が、九条にとって都合のいい証拠みたいに思えた。
職員室前では、時間割の変更案を挟んで、実行委員とクラス代表が言い合っていた。誰も間違ったことは言っていない。だから余計に決まらない。
真白は輪の外で、一度だけ全員の顔を見た。
苛立っている子。疲れている子。正論で押そうとしている子。諦めかけている子。
ここで以前の真白なら、もっと早く口を出していたかもしれない。いまは違う。言えば進む。進むと分かっているから、言う前に迷う。
「朝比奈さん」
誰かが縋るように言った。
その一言で、場の視線が全部集まる。
真白は数秒だけ黙った。みんな、その沈黙に耐えられない顔をする。
それで、もう十分だった。
真白は、なるべく平らな声で言った。
「二年の模擬店、搬入を十五分前倒しできるなら、三年のステージは機材チェックを後ろに回せる。どっちも、内容は削らなくて済む」
反論が二つ出て、確認が三つ続いて、そのあと、意外なくらい素直に話が流れ始めた。
以前なら、この瞬間に安心していた。
いまは、少し寒かった。
その夜、校内チャットには別の文面が出回った。
――結局、また朝比奈真白が決めた。
擁護も批判も混ざっていた。
助かった、という声。
頼りになる、という声。
最初からあの人が決めればいい、という声。
勝手に空気を取るな、という声。
どれも極端ではない。だからこそ、痛い。
真白はスマホの画面を伏せた。
隣で、悠真も同じものを見ていたらしい。
「ここからだよ」
「なにが」
「真白が、誰かを助けてるのか、学園ごと形を決めてるのか、分からなくなるの」
窓の外では、まだ遅くまで、誰かが背景パネルを運んでいた。
文化祭は、たぶん成功する。
その予感だけは、妙に強くあった。
成功するからこそ、失敗が見えなくなる。
九条が狙っているのは、そこなのかもしれないと、真白は初めてはっきり思った。




