第11話 それでも、誰かが言葉を選ばなきゃいけない
文化祭前日、空は朝から高かった。
不思議なくらい晴れていた。校庭のテント設営は順調で、校門のアーチも予定より早く立ち、体育館のステージチェックも、昨日の混乱が嘘みたいに進んでいく。廊下を歩く生徒の顔には疲れがある。それでも、そこに混じる期待は本物だった。
誰かが言った。
――なんだかんだ、間に合いそう。
その言葉が広がる速度を、真白は少し怖いと思った。
都合のいい希望は、いつだって伝染が早い。
「朝比奈先輩、おはようございます!」
「ポスター、追加分どこですか?」
「演劇部の照明、借りられるかだけ確認してもらっていいですか?」
朝から三件、五件、七件。頼み事の形は違っても、中身は似ている。確認してほしい。間に入ってほしい。少し話してほしい。君が言えば収まるから。
真白は、全部を断らなかった。全部を引き受けもしなかった。
最近の真白は、その線を探している。
言えば回る。でも、回していいとは限らない。
黙れば止まる。でも、止めることで守れるものがあるとも限らない。
正しい言葉は便利だ。便利なものは、すぐに消費される。
「真白」
後ろから呼ばれて振り向くと、悠真が紙コップを二つ持って立っていた。コンビニのコーヒーだ。
「顔、怖い」
「朝からそれ?」
「ずっと何か計算してる顔してる」
ひとつ差し出されて、真白は受け取った。ぬるい。ありがたかった。
「ぼく、今日の真白は、たぶん正しくしようとしすぎてると思う」
「褒めてないわよね、それ」
「褒めてない」
悠真は迷いなく言った。
「昨日から、真白は“自分が言ったらまた決まる”って分かってる。その状態で一番危ないのは、慎重になることじゃない。慎重になったふりで、いちばん正しい順路を出すこと」
真白はカップのふたを指で押した。
痛いところを突かれた。慎重になろうとすればするほど、結局いちばん摩擦の少ない解を選んでしまう。そういう癖が自分にあることくらい、もう分かっている。
「だったら、どうしろっていうの」
「分からない」
「は?」
「分からないよ。でも、分からないまま決めるしかない場面があるってことを、真白は嫌がりすぎる」
真白は返せなかった。
九条なら、きっとここで迷わない。
どの言葉が最も機能するか。誰を切り、誰を生かし、どこまで飲み込ませれば全体が最適に動くか。そういう計算を、九条はたぶん最初からしている。
真白はそれができる。でも、したくない。
問題は、したくないだけで、本当にしていないのかどうかだった。
昼前、生徒会室に呼び出された。
呼んだのは九条本人ではなく、副会長だった。運営最終確認の資料に、実行委員側の承認が足りないらしい。けれど真白が部屋へ入った瞬間、それが建前だと分かった。
机の上には書類が並んでいる。窓は開いていて、紙が少し揺れている。生徒会室は静かすぎて、外の喧騒だけが遠い。
九条は中央の席にいた。いつも通り整った制服で、いつも通り表情が薄い。
「忙しいところすみません」
「用件だけ言って」
「冷たいですね」
「わたし、君にだけは優しくしたくないの」
九条が少し笑う。
「それは光栄です」
真白は立ったままだった。座るつもりがないと分かって、九条も無理には勧めない。
「昨日の紙、君でしょ」
「証拠は」
「ない」
「では違うかもしれません」
「でも、内容は君の言葉だった」
九条は否定しなかった。
その代わり、ゆっくりと言った。
「君は、あれを読んで痛かったでしょう」
真白の指先が、一度だけ強くこわばる。
「図星だから」
「違う」
「では」
「わたしも思ってたことが書いてあったから」
口にしてから、その事実の重さが遅れて来た。
九条の目が、初めてわずかにやわらいだ気がした。
「それで十分です」
「なにが」
「君がそこに辿り着くこと。それ自体に意味がある」
真白は眉を寄せた。
「最初からそれが目的だったって言いたいの」
「一つには」
九条は平然と言った。
「朝比奈さん。君は自分の言葉を、善意の側に置きすぎていた。だから見えなくなる。押された側が、どれだけ“自分で決めた”顔をさせられてきたか」
「させられて、なんて」
「君は命令していない。脅してもいない。だから厄介なんです」
九条の声はずっと穏やかだった。それなのに、一語ごとに逃げ場がなくなる。
「人は命令に反発できます。悪意にも気づける。けれど美しい言葉には抗いにくい。正しい、優しい、合理的だ。そう感じた瞬間に、拒否はわがままになる。沈黙は未熟になる。異論は空気を読まないことになる」
真白は、何か言い返そうとして、できなかった。
思い当たる顔が多すぎた。
あのとき、自分で決めたように見えた子たち。
助かった顔をした子たち。
その場は丸く収まったのに、あとから少し疲れたように笑っていた子たち。
「君は、たくさん救ったでしょう」
九条は言う。
「でも、救われた側にとって、その救いがどれだけ強制だったかを、確かめたことはありますか」
「……君は、だから全部壊せって?」
「違います」
そこで、九条の声がほんの少しだけ低くなった。
「壊すためではない。名前を与えるためです。みんなが美徳と呼んで見逃してきたものに」
真白は、その瞬間だけ、九条が怒っているのだと分かった。
大きな怒りではない。長く冷えて、鋭利になった怒りだ。
きっとこの人にも、理由がある。
優しい言葉に追い詰められた過去か、正しさの側に切り捨てられた記憶か。真白は聞かなかった。聞いたら、九条の正しさが増してしまう気がした。
「君の言うことは」
真白は息を整えた。
「たぶん、半分は正しい」
九条は黙って聞いている。
「でも、それで全部を決めるのは違う。人が言葉に動かされるからって、だから最初から最適解に導いていいわけじゃない」
「では、どうするんです」
「一緒に迷う」
口にした瞬間、自分でも少し驚いた。
もっと整った言い方はいくらでもあった。なのに、それが出た。
「間違うかもしれなくても、相手が選べる場所まで一緒に行く。決めるところまで、わたしが奪わない」
九条はしばらく真白を見て、それから小さく笑った。
「理想ですね」
「知ってる」
「しかも、たいへん不安定だ」
「それも知ってる」
「文化祭は、そんな不安定さを抱えたまま始められるほど、やさしい行事ではありませんよ」
「じゃあ、なおさら」
真白は言った。
「ここで、誰か一人の綺麗な答えに寄りかかったら、あとに残るのは成功した文化祭じゃない。上手く操縦された文化祭よ」
九条の笑みが、そこでようやく消えた。
怒っているわけではない。
ただ、見定められた感じがした。
「朝比奈さん」
「なに」
「君がその考えに辿り着いた時点で、わたしの目的は半分達成されています」
「最悪」
「でしょうね」
生徒会室を出たあと、真白は階段の踊り場でしばらく止まった。足が少し震えていた。怖かったのだと、そこでやっと気づく。
九条が正しい部分を持っていることが、怖かった。
自分がそこまで来てしまったことも、怖かった。
下で待っていた悠真が、顔を上げる。
「話した?」
「話した」
「どうだった」
真白は、いつもみたいに強い言い方ができなかった。
「最悪」
悠真は一度だけ目を細めた。
「そっか」
「ねえ、悠真」
「うん」
「九条、正しいのかもしれない」
その一言を出すまでに、真白は何時間もかかった気がした。
悠真はすぐには答えなかった。
それから、窓の外のテントを見ながら、静かに言う。
「ぼくも、そう思うときがある」
真白は顔を上げた。
「でも」
悠真の声は低い。
「正しいからって、同じやり方を選んでいいことにはならない」
それが慰めではないことが、ありがたかった。
前夜の校舎は、まだ明るい。誰かが笑って、誰かが走って、誰かが失敗して、誰かがフォローする。
文化祭は明日だ。
たぶん成功する。成功してしまう。
その成功が、何を証明するのかは、まだ誰にも分からなかった。




