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第12話 彼女は言葉で世界を動かす

文化祭当日の朝、校門が開く前から、もう校内はざわついていた。

 模擬店の火入れ確認。体育館ステージの通し。受付の最終配置。校内放送の原稿差し替え。来場者導線のテープ貼り直し。どこもかしこも人が動いていて、失敗も起きているのに、全体としては不思議なくらい噛み合っていた。

 真白は、教室の窓からその景色を見た。

 色が多い。声も多い。校庭に並んだテントの白、装飾の布の原色、教室から漏れるBGM、階段を駆ける足音。文化祭だ、と思う。ちゃんと文化祭に見える。

 それだけで少し胸が痛かった。

 ここまで来た。

 たくさんの言葉が、この日に流れ込んでいる。励ましも、誤魔化しも、正論も、期待も、押しつけも、救いも、都合のいい沈黙も。その全部が重なって、いま目の前の賑わいになっている。

「まだ怖い顔してる」

 横から悠真の声がした。

「うるさい」

「成功しそうだよ」

「うん」

「それでも?」

 真白は、答えるまでに少し時間がかかった。

「それでも、って感じ」

 悠真は笑わなかった。冗談にしない。

「ぼくも」

 短い返事だけで十分だった。

 九条の名前は出さない。それでも、二人の間には同じ人物がいた。

 午前中の来場は想定以上だった。模擬店の列は伸び、ステージ企画は立ち見が出て、SNSには校内の写真が次々上がる。好評だ、という空気が一時間ごとに強くなっていく。

 二年三組の展示には、人が途切れない。三年の演劇は拍手を浴び、一年のアトラクションには予想外の長蛇の列ができた。教師たちも、保護者も、招待された近隣客も、みんな笑っている。

 大成功だった。

 その事実を、真白は正面から受け止めきれなかった。

 だって成功している。

 成功しているなら、何が悪いのか、と言うのは簡単だ。実際、学園の大半はそう言うだろう。

 でも、成功したことと、途中の圧力が正しかったことは、同じではない。

 そこを、九条は見ろと言っていた。

 昼過ぎ、ステージ横の機材トラブルで一時ざわつきが起きた。司会原稿が飛び、次の演目との間が空きそうになる。現場の実行委員が真っ青な顔で立ち尽くし、そのまわりには「どうする」「誰が決める」と不安が広がる。

 そのとき、一番先に上がった名前は、やっぱり真白だった。

「朝比奈先輩なら」

 その一言で、数人が真白の方を見る。

 真白は、息を吸った。

 ここで以前の自分なら、場を切っていただろう。最短距離の指示を出して、誰が動き、何を削るかを決めたはずだ。

 それはできる。

 九条もできる。

 そして、たぶん一番速い。

 でも真白は、その速さに寄りかからなかった。

「いま、代替で喋れる人は?」

 問いかけると、司会補助の二年生が小さく手を上げる。

「原稿なくても、最低限のつなぎなら」

「じゃあお願い。三十秒でいいから客席を引っ張って。機材班は、復旧に必要な時間だけ先に言って。分からないなら、分からないって言って」

 誰かに決定を押しつけたわけではない。役目を全部奪ったわけでもない。

 真白がしたのは、止まっていた視線を、それぞれの持ち場へ戻しただけだった。

 小さな混乱は、それで持ち直した。

 拍手が起きる。

 その拍手の中に、自分に向けられた感謝が混じっていることが分かって、真白は少しだけ顔をしかめた。

「上手くやるようになったじゃないですか」

 いつの間にか、九条がすぐ横にいた。

「最悪」

「褒めています」

「なおさら最悪」

 九条はステージの方を見たまま言う。

「今日の君は、以前よりずっと危うい」

「どういう意味」

「自分が何をしているか分かったうえで、言葉を選んでいるからです」

 真白は九条を見た。

「君が望んだんでしょう。わたしがそこに気づくこと」

「ええ」

「だったら満足しなさいよ」

「していますよ。半分は」

 半分。

 その言い方に、嫌な予感がした。

「もう半分は」

「君が、そこまで来てもまだ、わたしと同じ場所には立たないことです」

 九条はようやく真白に視線を向けた。

「わたしなら、いまの混乱で、もう一歩先まで決めた。誰が責任を引き受けるべきか、次に同じことを起こさないために誰を中心に据えるべきか、もっと綺麗に整えたでしょう」

「だから嫌なの」

「知っています」

「きれいすぎるのよ、君のやり方は」

「成功しましたよ、文化祭は」

 真白は、そこで黙った。

 それがいちばん痛い。

 成功している。実際に、みんな笑っている。ここで九条の言葉は、とても強い。

「朝比奈さん」

 九条の声音は静かだった。

「今日が大成功で終わったとして、それで何が証明されると思いますか」

「……みんな、頑張ったってことでしょ」

「それだけではない」

 九条は言う。

「人は、多少押されても、多少追い込まれても、結果が良ければ正しかったと思いたがる。そこまで含めて、人は言葉に導かれるんです」

 真白は反射的に否定したかった。

 でもできない。

 それを、認めたくないだけだと分かってしまうから。

「君はもう、そこが見えている」

 九条の声はどこか満足そうだった。

「見えてしまった人間は、以前と同じようには誰かを救えない」

「救うために言葉を使うの、やめろって?」

「いいえ」

 九条は首を振る。

「やめなくていい。ただ、もう無邪気ではいられない。それを受け入れてください」

 言われなくても分かっている、と真白は思った。

 分かっているから、腹が立つ。

 午後、来場者数はさらに伸びた。閉会前のステージ企画は予定以上の盛り上がりになり、体育館は熱気で少し曇るほどだった。表彰の歓声、模擬店の売り切れ宣言、廊下の笑い声。文化祭は、誰がどう見ても成功だった。

 閉会のあいさつの前、実行委員長が緊張で言葉を詰まらせた。会場が一瞬だけ止まる。

 そのとき、また空気が真白を見る。

 ――言って。

 その無言が、あまりにもはっきり伝わってきた。

 真白は壇上の袖で、それを受けた。

 言えば、会場はもっと綺麗にまとまる。今日の意味を、誰も傷つけない形で総括できる。泣かせることも、笑わせることも、たぶんできる。

 九条なら、そうする。

 でも真白は、実行委員長の肩を軽く押しただけだった。

「大丈夫。言えるところまででいい」

 それだけ言って、一歩下がる。

 実行委員長は震えながらマイクを握り、途中で言い直し、少し噛んで、でも最後まで話し切った。完璧じゃない。整ってもいない。けれど、その拍手は今日いちばん温かかった。

 真白は、その音を聞きながら、九条を探した。

 後方の壁際に、彼はいた。拍手はしていない。ただ、こちらを見ていた。

 負けた、と真白は思わなかった。

 勝った、とも思えなかった。

 文化祭が終わったあと、夕方の校舎は急に広くなる。喧騒が引いたぶんだけ、残った紙くずや、解体待ちの看板や、空になったペットボトルが目につく。

 片づけの手を止めた悠真が、屋上前の踊り場で真白を待っていた。

「終わったね」

「うん」

「大成功」

「そうね」

 二人とも、すぐにはその先を言わない。

 成功した、で終われたらどれだけ楽か。そう思う。でも終われない。

「悠真」

「うん」

「九条、正しかったのかもしれない」

 昨日よりも、言葉が重い。

 今日の成功を見たあとで言うその一言は、負けを認めるのに近かった。

 悠真は長く黙ってから、答えた。

「たぶん、正しい部分はある」

「部分、で済ませていいのかな」

「済ませたくないから、真白はいまここにいるんでしょ」

 真白は笑えなかった。

「文化祭、こんなに上手くいったのに」

「だからだよ」

 悠真は手すりにもたれた。

「上手くいったから、余計に分かんなくなる。途中で誰がどれだけ押されてたかとか、空気に飲まれてたかとか。全部、“よかった”の一言で流せるから」

 その通りだった。

 九条が見せたかったのは、きっとそこだ。

 結果が成功なら、途中の暴力は見えなくなる。正しい言葉の圧力も、善意の同調も、綺麗な誘導も、全部まとめて“必要だった”ことにされる。

 そこまで考えて、真白は小さく息を吐いた。

「最悪」

「うん」

「でも」

 真白は、夜になりかけた校庭を見た。テントは半分片づいて、門のアーチも外され始めている。祭りのあとだ。終わっているのに、まだどこか熱が残っている。

「だったら、わたしが言葉で変える」

 久しぶりに出たその台詞は、以前より少しだけ重かった。

 悠真が隣で息をつく。

「それ、正しいけど危ないよ」

「知ってる」

「前より悪い」

「うるさい」

 けれど、少しだけ笑えた。

 そのとき、悠真のスマホが鳴った。画面を見た彼の表情が、わずかに変わる。

「何」

「……他校合同の討論交流会」

「は?」

「文化祭運営の成功事例として、うちの学校に声がかかったらしい。生徒会経由で、選抜メンバーを出したいって」

 真白は嫌な予感しかしなかった。

「誰が行くの」

 悠真は画面をそのまま真白に向けた。

 候補者一覧の一番上に、朝比奈真白。

 その少し下に、高瀬悠真。

 そして、九条絢人。

 真白は無言で天井を仰いだ。

「最悪」

 同じ言葉を、今度は二人で言った。

 校舎のどこかで、まだ片づけの笑い声がする。

 文化祭は終わった。たしかに終わった。

 けれど、九条の問いは終わっていない。

 むしろ、学園の外へ持ち出される準備を、もう始めているようだった。

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