第8話 遺書未満
夏休み前、文芸部の生徒が残した一枚のメモが騒ぎを呼んだ。『もう少しうまく書けたら、ちゃんと消えられたのに』。遺書にも、ただの比喩にも読める文章だった。本人は行方不明ではなく、家で高熱を出して寝込んでいただけだったが、その一文だけが校内を駆け巡るには十分だった。
真白は最初、そのメモそのものより周囲の解釈の速さに嫌悪を覚える。心配しているようで、みんな自分が一番納得しやすい物語に寄せていく。あれは助けを求める文章だ、いや注目を集めたいだけだ、いや元々不安定だった。どれも勝手だ。
当の本人、三枝麻衣は熱が下がったあと、学校で真白たちと話すことになった。彼女は疲れた顔で言う。
「遺書のつもりじゃなかったです。ただ、そのときは本当に、うまく消えたかった」
「消えたかった?」
「期待から」
その一言で、真白は前のめりになりかけて止まる。期待という言葉は、軽い顔をして人を深く刺す。
麻衣は部活でもクラスでも「文章が書ける子」として扱われていた。顧問は褒め、友人は頼り、周囲は勝手に才能の物語を作る。その善意の束が、ある日突然、息苦しくなっただけだ。
「“書ける子”って言われると、書けない日が失敗になるんです」
真白はそこで、自分の胸にも同じ痛みがあることに気づく。九条に言われた、“場を整える人”。悠真に言われた、“きれいに終わらせすぎる人”。周囲が真白へ見ている像も、たぶん少しずつ固まっている。
九条は今回、表に出ていない。けれど影はある。文芸部の顧問へ「三枝さんは言葉に責任感がありますね」と言っていたらしい。その褒め方が、麻衣をさらに“書ける側”へ固定した。
「褒めるのって簡単ね」
真白が吐き捨てると、悠真が静かに返す。
「責めるより効く」
麻衣ともう一度向き合った真白は、珍しくすぐに答えを出さなかった。
「やめてもいい」
そう言いかけて、飲み込む。
代わりに出したのは別の言葉だ。
「書けない日があっても、書ける人は消えない」
曖昧な言葉だ。完璧ではない。けれど麻衣は少しだけ泣いて、そこで初めて“今日は何も書きたくない”と自分で言えた。
放課後、九条は言う。
「ずいぶん不親切だね。もっと綺麗に救えたはずだ」
「綺麗に救ったら、たぶんまた別の檻になる」
「不自由を怖れすぎると、人は何も選べない」
「だからって、選ばせないのは違う」
この回で真白は、“役割を着せる言葉”の重さをかなり具体的に理解する。九条のやり方を否定しながら、自分も同じ地面の上に立っていることを認め始める重要回だ。
麻衣のメモ騒動は、本人が戻ってきても完全には収まらなかった。解釈された言葉は、書いた本人の手を離れたあとも勝手に増殖する。文芸部の友人たちは“誤解だった”と訂正しようとしたが、訂正の文すらまた別の読み方を呼んだ。
真白はそこで、言葉は放った瞬間に終わるわけではないのだと、改めて思い知らされる。自分が誰かへ置いた一言も、相手の中で勝手に育つのかもしれない。
放課後、三枝麻衣の机には見舞いの付箋が何枚も貼られていた。『待ってる』『無理しないで』『あなたの言葉が必要』。善意ばかりで、だから余計に息が詰まる。
「必要って、便利な言葉ね」
真白が呟くと、悠真は机から付箋を一枚ずつ剥がしてまとめながら言った。
「言う側は励ましてるつもりだから厄介」
「悪くないのに、重い」
「真白も前はよく使ってた」
「……知ってる」
知っている、と言えたこと自体が少し前進だった。
その日の帰り、九条は珍しく真正面から真白へ問うた。
「君はまだ、“正しく使えば大丈夫”と思ってる?」
「思ってない」
「じゃあ?」
「正しくても、重いときがある」
「その通りだ」
即答されて、真白は逆に苛立つ。
「だからって、あんたのやり方が正しいとも思わない」
「もちろん。わたしは正しい側に立ちたいわけじゃない」
「じゃあ何」
「見ないふりをしないだけだ」
その言葉はずるい、と真白は思う。ずるいし、少しだけ羨ましい。九条は自分が人を動かしていることを知ったうえで、その責任ごと引き受ける顔をしている。真白はまだ、そこまで腹を括れない。
この回の終わりで真白は、優しい言葉でも人は傷つくし、傷つけた側がそれに気づかないことがいちばん厄介なのだと、かなり具体的に理解するようになる。
麻衣の件で教師たちは“誤解を招く表現は慎むように”と全校へ通達を出した。だが真白は、その文面を読んだ瞬間に嫌な笑いが漏れそうになった。誤解を招く表現を慎め、という表現自体が、誰にも何も考えさせない便利な蓋だったからだ。
「最悪ね」
職員室前でそう呟くと、悠真が隣で頷く。
「言葉の問題を、言葉を減らして解決しようとしてる」
「たぶん一番早いんでしょうね」
「早いけど、残る」
残る。最近、真白の中でその語感ばかりが大きくなっている。
文芸部では、麻衣の机の上から過剰な付箋が減った代わりに、みんなが妙に慎重に距離を取るようになった。それもまた別の意味で彼女を孤立させる。優しさも沈黙も、置き方ひとつで檻になる。
真白は部室の入り口で、何も言わずに座っている麻衣の横へ紙コップを置いた。
「書かなくていい日は、何してるの」
「……寝るか、音楽聴くか」
「じゃあ今日はそれでいいんじゃない」
「いいのかな」
「誰が駄目って言うの」
短いやりとりだったが、麻衣は少しだけ肩の力を抜いた。その変化を見て、真白は自分の中にまだ残っている怖さを認める。こういう小さな一言でも、人は楽になる。楽になってしまう。そのことを知った上で、なお言うのなら、前よりずっと責任が重い。
帰り際、九条は言った。
「君は最近、“綺麗に救わない”ことを覚えた」
「言い方」
「褒めてはいない。だが嫌いでもない」
以前なら過剰に丁寧だったその声は、いまは距離の近い冷たさに変わっている。丁寧だけど敬語すぎない。礼儀は崩さないのに、逃げ道を残さない。真白はその調子が前よりずっと嫌だった。近いからだ。
麻衣が帰ったあとの部室には、まだ少しだけぬるい空気が残っていた。誰も悪くない顔をしている。悪くないからこそ、次も同じことが起きるのだと真白は思う。
机の端に置かれた麻衣の原稿用紙を見て、真白は紙へ触れずに目だけで追った。書き出しだけで止まっている。続きはない。続きがない文章を見たとき、人は勝手にその先を埋めたくなる。それは親切にも見えるし、暴力にも見える。
「真白」
悠真が低く呼ぶ。
「……分かってる。勝手に読まない」
「そっちじゃなくて。いま、自分のこと考えたでしょ」
図星で、真白は小さく舌打ちした。書ける人、整える人、言えば回る人。自分の周りにも、もう少しずつそういう勝手な続きを書かれ始めている。
帰り道、真白は珍しく自分から言う。
「わたし、ああいうふうに“その人らしさ”を先に決めるの、嫌い」
「うん」
「でも、前のわたしもやってた」
「うん」
悠真は否定しない。だからその一言が余計に重い。この回の終わりで真白は、役割を与えることの快さと危うさを、他人事ではなく自分の手触りとして持ち始める。




