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第7話 好きになってしまう声

 夏前、学園でひそかに噂になり始めたのは、“九条先輩に相談すると楽になる”という話だった。進路、恋愛、家のこと、部活のこと。相談した生徒はみんな似た顔で戻ってくる。泣いていた子ですら、どこか穏やかだ。だから余計に不気味だった。

「楽になってるなら、いいことじゃない」

 最初、真白はそう言いかけてやめた。自分でも半分はそう思ってしまうからだ。九条の言葉は、たしかに人を壊すだけではない。むしろ、相手にとって一番欲しい輪郭を与える。だから人は好きになってしまう。

 その噂の中心にいたのは、一年の女子・未帆だった。明るくて人気者、でも最近やけに落ち着いている。友人からすると「大人になった」。悠真からすると「九条の言葉に寄りかかりすぎてる」。

 真白が未帆と話してみると、返ってくる言葉は妙に整っていた。

「自分の役割が見えたんです」

「役割?」

「わたし、人の空気をよくできる人なんだって」

 その定義は危うい。褒め言葉の形をしているが、一度そう言われれば、未帆はずっと“空気をよくする子”でいなければならなくなる。

「それ、好き?」

 真白が聞く。

 未帆は少しだけ迷ってから笑った。

「好きというか、安心します」

 安心。九条の言葉が与えるものの正体は、たぶんそこだ。曖昧な自分に輪郭を与え、役割を持たせる。人は輪郭があると落ち着く。たとえその輪郭が檻でも。

 その夜、真白は九条に呼び止められる。

「嫌な顔をしていますね」

「君のせい」

「光栄です」

「未帆に何言ったの」

「向いている形を言葉にしただけです」

「それで、向いていない方へ行けなくなる」

「人は無数の可能性に耐えられません。だからひとつ、立ちやすい場所を渡す」

「それって親切の顔した支配でしょう」

 九条はそこで初めて少しだけ目を細めた。

「じゃあ君は、相手を揺れたままにしておくのか」

 答えに詰まる。揺れたままでいる苦しさを、真白は知っている。だからこそ、“立ちやすい場所”を与える言葉の魅力も分かってしまう。

 帰り道、悠真が言った。

「似てるって思った?」

「最悪だけど、少し」

「そこを嫌がれるなら、まだ大丈夫」

 好きになってしまう声は、たいてい柔らかい。だからこそ真白は、自分の声もまたそう働き得るのだと、嫌でも意識し始める。九条と同じだとは認めたくない。けれど“全然違う”とも言い切れない。鏡像が輪郭を持ち始める回である。


未帆の相談は一度きりで終わらなかった。数日後、彼女はまた九条のところへ行ったらしい、という噂が流れ、そのたびに“少し落ち着いた顔”で戻ってくると誰かが言う。真白はその顔を実際に見て、認めたくないのに認めるしかなかった。たしかに救われた顔だ。

「九条先輩って、ちゃんと見てくれるから」

 未帆はそう言った。

「何を?」

「向いてる役。わたしが無理しなくてもいい場所」

 その答えに、真白は胸の奥がざわつく。場所を与えることは、やさしい。やさしいから、人は自分から入りたくなる。

 その夜、クラスのグループチャットでも似た空気があった。作業分担が決まらず、何人かが沈黙している。真白はスマホを見ながら、打ち込んでは消し、打ち込んでは消した。

『得意な方で分ければ』

 それだけ送れば、おそらく流れはできる。けれど“得意な方”と呼ばれた人は、そこから抜けにくくなる。

「送らないの」

 隣から悠真が覗き込む。

「見ないで」

「いつもの真白ならもう送ってる」

「だから迷ってるの」

 言ってから、自分で少し驚いた。迷っている、とちゃんと口にしたのはたぶん初めてだった。

 結局真白は、『今日決めなくてもいいなら、明日対面でやれば』とだけ送った。遅いし不親切だ。でも、その不親切さの方が必要な夜もある。

 翌日、九条は階段で真白を見つけるなり言った。

「ずいぶん丸くなった」

「嫌味?」

「半分は」

「残り半分は」

「怖がることを覚えた、という意味だ」

 真白は即座に否定しようとしたが、できなかった。怖い。たしかに少し、怖いのだ。自分が口を開いたあと、誰かの中でどんな輪郭が固まるのか。それが見えてしまうようになったから。

 未帆の件は大きな事件にはならない。だからこそ後に残る。救われた顔をした人が、本当に自由になっているのか、真白には判断できない。判断できないまま、九条のやり方を全否定できない自分だけが残る。


未帆の相談のあと、クラスでも“朝比奈ならどう言うか”を冗談めかして真似する空気が一度だけ生まれた。悪意はない。むしろ信頼の表現だ。けれど真白は、その軽さにぞっとした。

「やめて」

 思わず言うと、周囲はきょとんとする。真白がそこで怒ると思っていなかったのだろう。

「え、褒めたつもりだった」

「そういうの、褒め言葉でも重いから」

 教室が一瞬静まり、そのあと「ごめん」と小さな声が返った。真白は自分でも驚く。前ならたぶん、笑って流していた。

 放課後、悠真は階段に座ったまま言う。

「いまの、ちゃんと言えてた」

「何が」

「自分が何を嫌だと思ったか」

「それくらい言えるわよ」

「前は、“別に”で済ませてた」

 九条と似ているかもしれない、という嫌悪は、最近では“だから違う使い方をしないといけない”という焦りへ少しずつ形を変えている。

 その夜、未帆から真白へ短いメッセージが来た。『九条先輩に言われた役割、安心するけど、たまに苦しいです』。

 真白はすぐには返せなかった。安易に“じゃあやめれば”とも、“でも救われたんでしょ”とも言えない。しばらく画面を見たあと、ようやく送ったのは一行だけだった。

『安心できることと、ずっとそこにいることは別だと思う』

 送ってから、真白はベッドへ倒れ込む。いまのはたぶん、前の自分よりずっと弱い言い方だ。でも、その弱さの中にしか残せない自由もある。

 翌朝、九条は廊下ですれ違いざまに言う。

「昨夜の返信、らしかった」

「なんで知ってるの」

「相談は、案外つながる」

 その返しにも腹が立ったが、同時に真白は理解する。九条は人と人のあいだに流れた言葉の残り方まで追っている。だから強い。だからこそ、勝ちたくない形で似てしまうのが怖い。


翌日、未帆は真白へ『その言い方、少し楽でした』とだけ返してきた。楽でした。救われました、でも、正しかったです、でもない。その曖昧さに、真白はほんの少しだけ救われる。答えを出し切らない言葉でも、人は前へ進けるのかもしれない。

 ただし、その感触はすぐ別の不安に変わる。曖昧さを残したはずなのに、それでも相手は動いた。なら結局、強さの問題ではなく、置いたという事実そのものが重いのではないか。

 放課後、悠真は廊下の手すりにもたれて言う。

「考えすぎてる顔」

「うるさい」

「でも、前よりいい」

「なんで」

「真白が“効くかどうか”じゃなく、“残るかどうか”を気にしてるから」

 その言葉で、真白はこの話の終わりにもう一度だけ九条を思い出す。人の中に残る形まで読んで言葉を置くこと。それを知っていてやる人間と、知り始めたばかりの自分。その差はまだ大きい。大きいからこそ、文化祭本番までに何を選ぶのかが重要になる。

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