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第5話 演説の温度

六月、生徒会補欠選挙が告示された。大きな祭りではないが、九条絢人が候補者選びに関わっていると知れた時点で、学園は少しざわつく。あの副会長がつく側は強い。みんな半ばそう思い込んでいた。

 真白が目をつけたのは対立候補の瀬戸涼葉だった。目立つタイプではないが、委員会仕事の信頼は厚い。問題は、本人が自分の価値を言葉にするのが下手なことだ。

「“頑張ります”は禁止」

 放課後の空き教室で、真白は涼葉の原稿を赤で潰した。

「“みんなのために”も曖昧。“声を大事にします”も便利すぎる」

「じゃあ何言えばいいの」

「今日までにやった仕事を言うの。何を片づけて、何を残して、何を面倒だと思ったか」

「面倒って言っていいの?」

「言った方が信用される」

 真白はそこで、自分でも少し驚く。前ならもっと“正しい演説”を作っていたはずだ。理想があり、熱があり、きれいな結論がある言葉。けれど今は、それが怖い。綺麗すぎる言葉は、人の判断を奪う気がする。

 一方で、九条が支える候補者の演説は完璧だった。目線、間、声の落とし方。未来への希望だけを磨き上げ、不安は丁寧に包んで否定する。うまい。うますぎる。拍手が起こるべき場所でちゃんと拍手が起こる。

「すごいね」

 隣で悠真が呟く。

「最悪ね」

「同じ意味かも」

 演説当日、涼葉は壇上で一度だけ原稿を置いた。

「わたし、きれいなことを言うの得意じゃありません」

 その一言で、体育館の空気が変わる。涼葉は、文化祭の申請が毎年どこで止まるか、掃除当番の引き継ぎがどこで揉めるか、備品管理の連絡が誰に集中しているかを具体的に話した。理想より先に、生活の手触りを並べる演説。派手ではない。でも、聞いている側に“自分の判断で選んだ”と思わせる余白があった。

 結果は僅差で涼葉の勝ち。

 体育館を出たあと、九条は真白へ歩み寄る。

「良い演説でした」

「どうも」

「ずいぶん賢い。理想を削って、選ぶ余地だけを残した」

「勝つためよ」

「ええ。君は最近、勝ち方を変えた」

 真白はそれを否定できない。

 帰り道、悠真が缶コーヒーを差し出した。

「お疲れ」

「苦そう」

「まだ飲んでない」

「雰囲気が」

 少し笑ってから、真白は真顔になる。

「ねえ」

「うん」

「わたし、前より変?」

「前より、考えてる」

「それ、褒めてる?」

「たぶん」

 演説は人を動かす。その事実は変わらない。問題は、どこまで決め切るかだ。真白はそこで初めて、“言葉の強さ”だけでなく“言葉の温度”を意識し始める。まだ手探りだが、確かに一歩進んでいる。


補欠選挙のあと、涼葉は真白へ礼を言いに来た。勝ったからではない。負けても、自分の言葉で立てたからだと言う。

「去年だったら、絶対“みんなのために頑張ります”って言ってた」

「言わなくてよかったでしょ」

「うん。あれ、便利だけど、自分がどこにもいない」

 その感想に、真白は少し黙った。自分がこれまで便利な言葉を何度使ってきたか、考えたくなくなる。

 校舎裏では、九条が支えた候補者にも人が集まっていた。あの演説に救われたと言う生徒は多い。未来が見えた、安心した、任せられると思った。どれも本音だろう。真白はそれを否定できない。

「勝っても負けても、残るのは“言われた後どうなるか”だよ」

 悠真がそう言って、演説原稿のコピーを畳む。

「真白の原稿は、涼葉があとで自分の言葉に戻れる」

「九条のは戻れないって言いたいの?」

「戻らなくて済むようにできてる」

 それはたしかに強い。迷わずに済む言葉は、人を楽にする。文化祭みたいな大きな行事では、そういう言葉の方が求められるのかもしれない、と真白は思ってしまう。

 その日の夕方、文化祭実行委員会ではステージ発表の枠を巡って小競り合いが起きた。真白は最初、席についたまま聞いていた。誰が何を譲れないのかだけ拾っていく。時間がない、目立ちたい、準備量が違う、去年も譲った。全部もっともだ。

「順番だけ先に決めれば」

 思わず口を出したのは、黙っているとさらに長引きそうだったからだ。

「優先順位を全員が口にすれば、ひとつは捨てられる」

 それでまた場が少し動いた。真白は言ってから息を止める。いまのも、置き方ひとつだったのかもしれない。

 九条は会議の端でその様子を見て、低く笑った。

「温度を覚えたね」

「なにそれ」

「熱量じゃなく、届いたあとにどれだけ残るかを考え始めた顔だ」

 褒められている気はまるでしない。けれど真白は、この話を経て少しだけ自分の言葉を前より慎重に選ぶようになる。まだ武器だとは思っていない。ただ、置いた言葉がそのあとどう残るかは、気にせずにいられなくなっている。


選挙の翌日、廊下では早くも“どっちの演説がよかったか”が話題になっていた。面白いのは、勝った側より負けた側の言葉を口にする生徒が意外に多いことだった。たぶん涼葉の言葉は、綺麗すぎなかったぶんだけ、自分のものとして持ち帰りやすい。

「朝比奈さんが手伝ったんでしょ」

 知らない一年生にそう聞かれて、真白は反射的に眉をひそめた。

「本人が喋ったのよ」

「でも言い回し、朝比奈さんっぽかった」

 そんなものまで見抜かれるのか、と真白は少しだけぞっとする。

 昼休み、涼葉は原稿の端を持ったまま笑った。

「わたし、自分の演説なのに、途中で“これ言っていいんだ”って思った」

「何それ」

「今まで、いいこと言わなきゃって思ってたから」

 その感想は、真白にとって予想外に重かった。言っていい言葉を増やすことと、言うべき結論へ連れていくこと。その差はたしかにあるはずなのに、どこで線が引けるのかが分からない。

 その日の放課後、九条は生徒会室の前で資料を閉じながら言う。

「君は最近、言葉を弱くしてる」

「悪い?」

「弱いのは悪いことじゃない。その分相手の手元へ残る部分を増やしてる」

「褒めてるの?」

「観察してるだけだよ」

 そう返す九条の声は丁寧だが、前よりずっと敬語の壁が薄い。近く聞こえるぶん、余計に警戒したくなる声だった。

 その晩、真白は初めて“言葉の温度”という言い方をノートへ書きつけた。強さではなく、熱さでもなく、届いたあとにどう残るか。そのメモは雑だったが、のちの真白にとってかなり大事な出発点になる。

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