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第4話 言ってほしい言葉

五月に入ると、学園は表面上の平穏を取り戻した。けれど真白の周囲には、前より少しだけ相談が増えた。クラスの小競り合い、部活の空気、委員会の齟齬。本人は呼んでいないのに、なぜか言葉の行き先にされる。真白にしてみれば迷惑な話だ。

 その日持ち込まれたのは、バレー部二年・水沢理子の相談だった。試合前になると体調を崩す。練習では動けるのに、本番が近づくと腹痛と吐き気が出る。顧問は甘えではないかと疑い、同級生たちはエースだからこそと気を遣い、後輩たちは心配しすぎて余計に理子を追い込んでいた。

 真白は最初、理子本人より周囲を見た。マネージャーは「理子先輩なら絶対戻ってきます」と言い、一年生は「理子先輩にしか決められない」と目を輝かせる。悪意はない。ただ、彼女に貼られている役割の紙が多すぎる。

「ねえ、理子」

 廊下の窓際、試合直前に真白は本人へ声をかけた。今回はわざわざ動いた、というより、放っておくと周りが理子を“理子先輩らしい言葉”で囲み続ける気がしたのだ。

「出るの、やめなさい」

 理子は目を見開いた。

「……え?」

「いまは」

「でも」

「“でも”じゃない。逃げるなって言われすぎて、逃げる以外の選択肢が見えなくなってるだけでしょう」

 理子の喉が鳴る。

「一回、休みなさい。それで自分がどうしたいか考えればいい」

 言った瞬間、真白は胸の奥が少しざわついた。これもまた、選択肢を与えているふりをした誘導ではないのか。だが今は、その違和感を深く掘る余裕がない。

 試合は辛勝だった。理子は途中からコートに戻り、英雄的ではないが確かな働きをした。終わったあとで理子はぽつりと言う。

「休んでいいって初めて言われた」

 その一言が、真白に妙に重く刺さる。

 帰り際、中庭で九条が待っていた。

「ずいぶん乱暴でしたね」

「必要だったの」

「ええ、結果的には。ただ面白い」

「なにが」

「君は最近、“正しいことを言う”より先に“言われたくないこと”を見始めている」

 図星だった。真白は嫌そうに眉を寄せる。

「人の心、勝手に読まないで」

「読んでいるのではなく、出ているだけです」

 それはそれで腹が立つ。

 帰り道、悠真は言った。

「さっきのは少しよかった」

「採点?」

「違う。前の真白なら、“出るか出ないか決めなさい”って言ってた」

「……言いそう」

「今日は“休んでいい”を先に置いた」

 理子から夜に届いた短いメッセージは、『休ませてくれてありがとうございました』だった。ありがとうの前に、休ませて、がある。真白はその順番を何度も見直す。

 もしかして自分は、相手の選び方そのものに触れているのかもしれない。

 ただしこの段階では、真白はまだそれを“操作”と呼ばない。今回はたまたま、見えてしまっただけ。そう思おうとしている。


理子の件が片づいたあとも、バレー部の空気はすぐには戻らなかった。試合に出た方がよかったのか、休ませた方がよかったのか、後輩たちはまだ答えを欲しがっている。真白はその視線をできるだけ避けた。自分が何か言えば、きっとまた“そういうこと”になる。

 それでも帰り際、マネージャーの一年生が追ってきた。

「朝比奈先輩」

「なに」

「先輩、理子先輩に何て言ったんですか」

「別に」

「でも理子先輩、急に顔が変わったから」

 真白は足を止めた。顔が変わる。そう見えていたのか、と少し驚く。

「……休んでもいい、って言っただけ」

「それだけで変わるんですね」

「変わったのは理子でしょ」

 そう返したものの、自分で言っていて少し軽かった。変わったのが理子自身だとしても、そのきっかけに自分の言葉がいたのは事実だ。

 夜、バレー部のグループチャットでは『理子先輩戻ってきてくれて安心した』という言葉が並んでいた。安心、という文字を見て、真白は眉をひそめる。安心させる言葉は、たいてい便利すぎる。便利だから、すぐに誰かの役割になる。

 翌朝、悠真は購買前でパンを選びながら言った。

「昨日の、ちょっと顔してた」

「どんな顔」

「自分の言葉が効いたって、ちょっとだけ分かった顔」

「最悪の言い方」

「でも違わない」

 否定しきれない自分が悔しい。真白はメロンパンを取り損ねた。

 その日の午後、理子本人から短いメッセージがもう一通届いた。『休んでいいって言われたとき、初めて“出ない自分”の顔を想像できました』。真白はその文を何度も読み返した。自分はたぶん、理子へ正解を与えたのではない。理子が見られなかった選択肢の輪郭を、少しだけ見えるようにした。それはいいことかもしれないし、危ないことかもしれない。

 放課後、九条は廊下の角で言う。

「君のやり方は、前より厄介だな」

「なんでよ」

「前は強かった。いまは優しい。優しい方が、人は自分で選んだと思いやすい」

「だからって、間違ってるとは限らない」

「もちろん。だから厄介なんだ」

 このあたりから真白は、悠真の警戒と九条の観察が、別の方向から同じ場所を指しているのではないかと、薄く気づき始める。


翌週、理子は自分から部のミーティングで「次に同じ状態になったら、先に休むと言う」と口にした。真白はその場にいなかったが、あとで理子本人から聞かされる。

「言えたの?」

「言った。ちょっと嫌な空気になったけど」

「でしょうね」

「でも、前より楽」

 楽。その言葉に真白はまた引っかかる。自分が置いた一言が、相手の“次の言い方”まで変えているとしたら、それはもう偶然とは呼びにくい。

 放課後、体育館の裏で後輩たちが理子の話をしていた。

「理子先輩、逃げたわけじゃなかったんだ」

「最初からそうだったんじゃない?」

「でも誰も、その言い方してなかったよね」

 真白は陰でそれを聞いて、息を止める。言い方が変わるだけで、同じ出来事の見え方まで変わる。知っていたはずのことが、今日はやけに手触りを持って迫ってきた。

 帰り道、悠真は珍しく何も言わなかった。代わりに改札の手前で一度だけ振り返る。

「真白」

「なに」

「いま考えてること、そのまま覚えてた方がいい」

「どれのこと」

「自分が言った一言より、そのあと周りの言い方まで変わるって感覚」

 図星だった。真白は返事をしないまま電車に乗る。その夜、理子から来た短いスタンプ一個にすら、前より少しだけ重さを感じた。

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