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第2章 第11話 言葉を捨てる瞬間

 朝の廊下は、まだ一日を始めたばかりなのに落ち着かなかった。掲示板の前を通るたび、誰かのスマホ画面に比較サイトの残像が映る。直接見ているわけじゃない。けれど、見ていないふりをしている顔ほど、その場の空気を濁らせる。

 悠真は階段の踊り場で立ち止まり、下のフロアを見た。実行委の二年が二人、名札の予備を手にしたまま話し込んでいる。内容は聞かなくても分かる。誰を前に出すべきか。誰なら燃えにくいか。そういう話題は、声を潜めるほど人を値踏みする響きになる。

 彼は降りていき、話の切れ目だけを狙って口を挟んだ。

「その予備、午後の受付に回したほうがいい。欠けが出ると、そこからまた写真を撮られる」

 二人は一瞬だけ顔を上げ、それから現実的な用件に引き戻された。話題が逸れる。順位づけの空気が、少しだけほどける。悠真はそこで立ち去った。説得したわけじゃない。ただ、別の考えごとを置いただけだ。

 一時間目と二時間目のあいだにも、同じことを何度か繰り返した。質問で止める。段取りで逸らす。誰かを否定せずに、言い方の角だけを先に外していく。相手によって使う言葉は変えた。焦っている実行委には手順を。怯えている一年には選ばなくていい理由を。教師には責任の所在を。真白みたいに正面から場を変えるんじゃなく、場が勝手に悪いほうへ転がらない並びを作る。その役目なら、自分にもできる。

 昼休み、真白は購買前の壁にもたれていた。パンの袋を持ったまま、通路の向こうを見ている。視線の先では、候補生徒の一人が友人に囲まれ、笑おうとして笑えていなかった。

 真白は悠真の足音に気づくと、顔だけで振り向いた。

「また先に地ならししたでしょ」

「してない。転ばないようにしただけ」

「同じでしょ、それ」

 真白は不満そうに言ったあと、すぐに息を吐いた。怒っているわけではない。分かってしまうから困る、という顔だった。

「あの子、さっきよりましだった」

「周りの聞き方が変わったから」

「変えたの、悠真じゃん」

「少し」

 真白はパンの袋を握り直す。

「そういうの、ほんと器用」

「真白ほどじゃない」

「わたしは器用じゃない。押してるだけ」

 言い切ったあとで、真白は自分の言葉に少しだけ引っかかったように黙った。悠真はそこを追わなかった。追えば、彼女は考える前に前へ出る。今はまだ、その速さが必要な場面じゃない。

 午後になると、比較サイトは更新を止めたまま、逆に不気味さだけを増していった。止まっているのに、止まっていない。誰もが次を待ってしまう。その待機の空気が、教室の会話や準備の手つきにまで移っていく。

 悠真は放送部に寄り、当日の案内文の読み上げ順を一つ入れ替えてもらった。実行委には、受付前に人が溜まりすぎない動線を提案した。生活指導の教師には、比較サイトの件で名前が上がっている生徒の近くに、わざと巡回を増やしてほしいと頼んだ。どれも小さい。どれも、それだけで事態が解決するような手ではない。けれど、小さなずれが重なれば、誰かが追い込まれる速度を少しだけ鈍らせられる。

 放課後、準備室へ向かう途中で、真白が前を歩く悠真に声を投げた。

「先生たち、先に動いてた」

「頼んだ」

「実行委の空気も変わってた」

「少しだけ」

「わたしに言う前に、周りを動かすんだ」

 悠真は歩幅を変えないまま答える。

「真白は、言えば動くから」

「それ、褒めてないよね」

「半分は」

 真白は小さく鼻を鳴らした。それきり何も言わない。けれど、その沈黙には、助かっていることも、気に入らないことも、両方混じっていた。

 本当は、今日もこのまま外側を整えるだけで終えたかった。誰かを正面から止めるんじゃなく、止めなくて済む流れに変えたかった。けれど、準備室の前まで来た時点で、悠真にはもう分かっていた。間に合っていない。小さくずらし続けた一日が、結局、間に合わない夜へ押し流されている。だからここから先は、たぶん、今までと同じやり方では足りない。

 夕方の校舎は、行事前特有の落ち着かなさを抱えたまま沈んでいた。案内の張り紙はもう貼り終わっている。机の配置も、配布資料も、名札もそろっている。見た目だけなら、交流討論会の準備はきれいに整っていた。

 けれど、廊下を通る生徒たちの視線だけが落ち着かない。誰もがスマホを持ち、誰もが、見ていないふりをしている。比較サイトが昼すぎから止まっていることを、みんな知っていた。止まったままなのが不気味で、だからなおさら、次に何が来るのかを待ってしまっている。

 真白は準備室の前で足を止めた。ドアの向こうに、夜の匂いがもう溜まり始めている。

「先生経由の線は?」

 問いかけると、隣を歩いていた悠真が短く首を振った。

「生活指導にも実行委にも話は通した。でも、正式に動くには証拠保全と承認が要る。明日の開会には間に合わない」

「つまり、遅いってことね」

「うん」

 真白は息を飲み込み、そのままドアを開けた。

 夜の準備室は、息を潜めたみたいに静かだった。閉じた窓に廊下の光だけが薄く反射し、机の上のノートパソコンだけが白く場を照らしている。比較サイトの管理画面。実行待ちの投稿文。複数校の生徒の実名が並んだ一覧。どれも、あと一回触れれば動く位置にあった。

 その前に、九条絢人が立っている。合同運営用のバインダーを脇に置いたまま、椅子には座らず、最初から長引かせるつもりがないみたいな姿勢だった。

「来ましたか」

「その言い方、感じ悪い」

 真白が返すと、九条はわずかに視線だけを上げた。

「急ぐべき場面であることは、あなたも分かっているでしょう」

 言い返しかけて、真白は黙る。分かっている。分かっているから腹が立つ。

 悠真は部屋に入るなり、机の端に紙の束を置いた。アカウントの投稿時刻、引用された発言、出所がつながる可能性のあるログ。ここに来るまでにかき集めたものだ。

「名前まで出す必要はない」

 悠真は、まずいつもの声で言った。低く、平らで、相手が聞ける形に整えた声だ。

「代表候補の順位づけと煽りの構造だけ崩せばいい。管理側の投稿予約を止めて、会場側の導線を調整して、被害を増やさないことを優先する。そのあとで中の人間を追えばいい」

「それはどうでしょう」

 九条がすぐに返す。

「構造だけを壊しても、中心にいる人間は逃げます。相手は次の場を作るだけだ。こちらが今日守ったつもりのものは、数日後に別の形で燃やされる」

「でも、今ここで実名を流せば、関係ないところまで壊れる」

「関係ない、と切り分けられる段階は過ぎています」

 九条の声には熱がない。ないのに、一歩も引かない。

「比較サイトはもう遊びではない。順位をつけ、価値を決め、切り捨てる構造そのものになっている。そこに名前を伏せたまま手を入れても、中にいる側は傷の浅い者を切って終わりにする。あなたも見てきたはずだ」

 真白の喉が詰まる。見てきた。だから困る。九条の言っていることには、いつも嘘がない。

「……だったら、つまり?」

 問いは九条に向けたもののはずなのに、部屋の空気そのものへ投げたみたいになった。

「今夜、ここで終わらせるべきです」

 九条は画面の青い送信ボタンを見る。

「複数校の運営に接続している管理側の実名と証拠を流す。比較そのものの正当性を崩す。明日の本番に入る前に、構造ごと」

 準備室の蛍光灯がかすかに鳴る。真白はその音で、自分の右手がもうトラックパッドの近くにあることに気づいた。

 押せば終わる。少なくとも、表面は崩せる。誰が煽り、誰が順位を作り、誰を追い詰めたのか。記録ごと流してしまえば、この構造は一度壊せる。さっきまで、そう思っていた。

 悠真がそれに気づき、短く息を詰めた。

「真白」

 その呼び方は、まだいつものものだった。止めたい気持ちを、言葉の順番で抑え込んだ呼び方。

「それ、正しいけど危ないよ」

 真白は顔を上げる。悠真の決め台詞みたいなその一言が、今日はひどく遠く聞こえた。正しい。危ない。どっちも、もう分かっている。分かったうえで、なお傾いてしまっている。

「危ないのは分かってる」

 真白は自分でも驚くほど冷たい声で言った。

「でも、待ってるあいだにまた誰かが削られるのも、もう見たくない」

「だからって、そのやり方で救えるとは限らない」

「救えないかもしれなくても、止めなきゃいけない時はある」

 言ってしまってから、真白は胸の奥が冷えるのを感じた。その言い方は、九条に近かった。たぶん、近すぎた。

 悠真もそれを聞いていた。聞いて、何かを飲み込むみたいに沈黙する。

 九条はその沈黙を見逃さなかった。

「高瀬くん」

 穏やかな声だった。だから余計に、区切りのように聞こえる。

「あなたはずっと、被害を増やさないための流れを整えてきた。それは有効でした。ですが今ここで必要なのは、整えることではない」

 悠真は何も返さない。返せないのではなく、返したらその言葉がそのまま九条と真白のあいだに吸収されると分かっているからだった。

 二人はもう、答え合わせをしなくても同じ場所を見ている。何を切ればこの場が止まるか。どこまで傷を引き受ければ勝てるか。説明なしで噛み合ってしまう距離にいる。

 その外側に立っていることを、悠真は今さらみたいに思い知る。

 机の上の紙を握る指先に、少しずつ力がこもっていった。

「……ぼくは、方法の話をしてるんじゃない」

 絞り出すような声だった。けれどまだ、整えようとしている。まだ相手に届く形へ直そうとしている。

「それが正しいか、効率がいいか、そんなのは、たぶんもう二人とも分かってる。分かったうえで進もうとしてる。でも、そのあと真白が何を失うかは、まだ見てない」

「失うものをゼロにすることはできません」

 九条が言う。

「なら、その中で最小を選ぶべきです」

「そうやって選び続けた先で、真白自身まで材料にするなら駄目だ」

 言い終えた瞬間、悠真は自分でも分かった。今の言い方では足りないと。正しさの形をしたままでは、この部屋の空気に勝てないと。

 真白は振り向けない。背中に、悠真の視線だけが刺さっている。

「……だったら、つまり?」

 今度は、さっきより強く出た。責めるみたいな響きになったと、自分でも分かる。

 その瞬間、悠真の中で、何かが切り替わった。

「真白」

 呼び方そのものが違った。整っていない。低くもない。ぶつけるみたいに真っ直ぐだった。

 真白の肩がわずかに震える。

「そっちに行くな」

 九条が初めて、はっきりと悠真を見る。

 その視線は相手を測るときのものだった。けれど一拍だけ遅れた。返す言葉を先に用意できていない顔を、真白は初めて見る。

「感情ですね」

 いつも通りに整った言い方のはずなのに、最後だけわずかに浅かった。

「そうだよ」

 悠真は即答した。

「今日は、そうする」

 一歩、近づく。

「ぼくは、方法の話をしてるんじゃない。勝ったあとに真白が残るかどうかの話をしてる」

 部屋の空気が変わる。さっきまでの議論の流れから外れた、外れているのに無視できない熱が、そのまま落ちてきた。

「そんな勝ち方をしたあとで、真白が自分の言葉まで嫌いになるなら、ぼくは嫌だ」

 ノートパソコンの白い画面と、送信ボタンの青だけが、やけに鮮やかに浮いて見えた。

 誰も、すぐには次の言葉を選べなかった。選べなかった、の方が近い。

 九条だけが黙っていた。黙っている、というより、割り込む継ぎ目を測れないまま、その熱の外へ押し出されているように見えた。

 そのこと自体が、真白には衝撃だった。九条はいつでも、言葉の隙間に入って形を取り戻せる人だと思っていたからだ。

 真白はようやく、トラックパッドから指を離した。それだけで、今夜は押さないのだと、二人とも理解した。

「……今このまま押したら、たぶんわたし、自分で自分の言葉を嫌いになる」

 掠れた声だった。言い終えたあと、自分でも少しだけ震えた。

 九条は数秒だけ黙り、やがて小さく息を吐く。

 横顔は平静のままだったが、机の端に触れていた指先だけが、ほんのわずかに力を失って離れた。

「そうですか」

 短い返答だった。受け流しにも聞こえる。けれど真白には、受け流し切れなかった人の声にも聞こえた。

 責めるでも、慰めるでもない一言だった。その平坦さが、かえって真白には刺さった。

「本番まで、あと半日もありません」

「分かってる」

「では、朝にもう一度判断してください。まだ同じ結論なら、そのときは従います。ただし、遅れたぶんの痛みは、別の形で払うことになる」

 真白は返事をしなかった。できなかった。九条の言葉が冷たいことも、その冷たさの中に嘘がないことも、両方分かってしまったからだ。

 準備室を出るときも、三人はほとんど話さなかった。遅い時間の蛍光灯が長い廊下を白く延ばし、足音だけが乾いて響く。

 昇降口の手前で、九条は先に足を止めた。

「明日、会場で」

 それだけ言って去っていく背中は、最後まで乱れなかった。

 ただ、角を曲がる直前の歩幅だけが、ほんのわずかに合わなかった。乱れと呼ぶには小さすぎるそのずれが、真白にはかえって残った。

 残された真白と悠真のあいだには、さっきまでより静かな沈黙が落ちた。

 悠真は何か言いかけて、やめる。真白も、ありがとうの一つさえ、うまく口にできない。言えばそこで全部が形になってしまいそうで、まだ触れられなかった。

「……寝たほうがいいよ」

 結局、悠真が言えたのはそれだけだった。

 真白は小さくうなずく。うなずきながら、あんなふうに言葉を叩きつけられたのは初めてなのに、それが少しも雑に感じられなかったことを思う。

 守るために整えられた言葉じゃない。取り繕わないまま、まっすぐ届いた言葉だった。

 それが、痛かった。

 靴音が離れ、校舎の外の冷えた空気が流れ込む。真白は一人になってからも、しばらく動けなかった。

 

ありがとうも、ごめんも、結局その夜は言えなかった。

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