第2章 第10話 勝つために残さないもの
決定打は、あまりにもきれいな形で見つかった。
比較サイトの中心にいた複数の生徒が、匿名のはずの運営用チャットで互いに役割を分けていた記録。切り抜き担当、拡散担当、同情コメント担当、順位づけ文面の修正担当。さらに、そのうち二人は交流討論会本番の直前に「最終順位」の名目で候補者の人格評価まで流す準備をしていた。証拠としては十分以上だった。教師に出せば、討論会当日の参加停止もあり得る。学校間共有に回せば、言い逃れはかなり難しい。
問題は、その記録が彼らだけでなく、周辺の複数の生徒の将来にも触れてしまうことだった。
過去の悪ふざけ。別件の内輪ノリ。まったく関係ない私的な会話。全部が混ざって保存されている。中心だけを切り出すことは不可能ではない。だが、急げば急ぐほど雑になる。雑になれば、必要以上に人を巻き込む。
会議室の机に資料を広げた九条は、合同運営の責任者めいた静けさで、ほとんど迷わなかった。
「出します」
その一言で、部屋の空気が止まる。
「いま必要なのは、本番を守ることです。切り分けの精度より、拡散の速度を止めるほうが先です」
真白は資料の端を見つめた。頭では分かる。これを握ったまま精査している時間はない。相手は今夜中にも次の投稿準備を終える。明日の朝に出されれば、討論会そのものが順位づけの舞台に変わる。
「……どこまで出す」
「中心のログ全体」
「関係ない部分も混ざる」
「承知しています」
「承知って」
真白の声がわずかに荒れる。
「それで傷つく人が出る」
「出ます」
九条は目を逸らさない。
「ですが、ここで躊躇すれば、傷つく人はもっと増える」
悠真は部屋の隅でそのやり取りを聞いていた。二人とも、もう方法の是非を感情で話していない。誰がどれだけ傷つくか、その損傷の規模で判断している。その地点まで真白が来ていることが、彼には何より重かった。
「他の出し方は」
悠真が口を開く。
「中心だけ抜く」
「時間が足りません」
九条が即答する。
「教師に先に口頭で伝える」
「証拠の全体が必要です」
「じゃあ、明日の朝まで持たせる方法を作る」
「相手が待つ保証はありません」
切り返しが速い。全部もっともだ。だから会話が、方法ではなく決断の話になっていく。
真白は机に両手をついた。
「勝つために残すものが多すぎる」
自分でも驚くほど静かな声だった。
九条がそれを聞く。
「勝つためではありません」
「じゃあ何」
「壊さないためです」
「同じでしょ、いまは」
「違います」
九条の声も低い。
「あなたはまだ、その違いを捨てたくないだけだ」
その言葉に、真白は言い返せなかった。悔しい。腹が立つ。なのに、半分は当たっている。
真白が守りたいのは討論会だけではない。そこで話す生徒たちの、その後までだ。水野も、篠原も、名前の出ていない一年たちも、そしていま切られようとしている側の人間でさえ、ここで全部を失う形では終わらせたくない。けれど、そう思うほど、決断は遅くなる。
会議室を出たあと、悠真は真白を追った。廊下の先、暗くなり始めた階段の踊り場で、真白は手すりを握ったまま止まっていた。
「悠真」
「うん」
「わたし、どうしたいんだろ」
珍しい言い方だった。答えを持っている真白ではなく、答えの形だけ先に崩れている真白の声。
「被害は止めたい」
「うん」
「でも、そのために何人も残すみたいなやり方を選んだら、たぶんわたし、あとで自分を嫌いになる」
悠真は少し考えた。
「真白が守りたいの、討論会の成功じゃないでしょ」
「分かってる」
「人としての真白も入ってる」
その言葉に、真白の肩がわずかに動く。
「九条はたぶん、そこも最後に切ることが出来る」
「……うん」
「ぼくは、真白にはそこを切ってほしくない」
はっきりした否定だった。方法の話ではなく、真白の話として言っている。そのことだけが、真白の胸に残る。
けれど時間は待たない。夜の打ち合わせで、中心ログをいつ教師へ渡すかの最終確認に入ったとき、九条はもう実行段階に立っていた。必要な宛先、学校間の共有先、討論会運営責任者への同時送付。決まればすぐに送れる形まで整えてある。
「本番開始まで、あと半日もありません」
九条が言う。
「ここで出さなければ、相手に先手を渡す」
真白はその画面を見つめた。青い送信ボタンが妙に冷たい。押せば止まるかもしれない。押せば傷つく人も出る。押さなければ、また別の誰かが追い込まれるかもしれない。
そこへ悠真が入ってきた。
「真白」
名前を呼ぶ声だった。
ただ、それだけで、真白はすぐには振り返れなかった。九条の方法が正しいかもしれない地点まで、自分が来てしまっていると知っていたからだ。振り返れば、たぶん戻る。戻れば、守れないものもある。そう思ってしまう自分が、ひどく嫌だった。
「……いまは」
真白が言いかける。
その先を、まだ言い切れない夜だった。
証拠ログを前にした沈黙は長かった。中心にいる数人だけを処理したい。だが、雑に切れば周辺まで巻き込む。丁寧に選べば時間が足りない。その板挟みの中で、九条だけが先に割り切って見えた。
「こちらが躊躇しても、相手は躊躇しません」
冷たい言い方ではない。事実だけを置く声だった。
「迷っている時間も、向こうには材料になります」
真白は理解できてしまう自分に腹が立つ。正しい。だから危ない。
悠真は会議室の時計を見た。もう夜だった。ここから朝までは短い。だからこそ、いまの真白に必要なのは理屈の補強ではなく、自分が何を守りたいのかを見失わせないことだと分かった。
「真白」
階段の踊り場で言った言葉は、まだ続いている。
「ぼくは、方法の話をしているんじゃない」
真白が顔を上げる。
「真白がこのあと、自分の言葉を嫌いになるのを見たくない。自分を嫌いになった真白を、ぼくは見たくなんかないんだ!」
その言葉は、討論会の成功にも、合理性にも触れていない。だから真白の胸に直接残った。
それでも、戻るには遅すぎる気もした。九条はもう送信の準備を終えている。相手が今夜動けば、被害はまた広がる。守りたいものが多いほど、九条の方法は正しく見える。その地点まで真白は来てしまっていた。
夜の打ち合わせの最後、九条は画面を見たまま低く言った。
「あなたが押さないなら、わたしが押します」
真白は息を呑む。
「ただし、その場合でも結果はあなたの前に残る」
逃がさない言い方だった。責任からではなく、選択そのものから。
真白は青い送信ボタンを見つめたまま、指を置けなかった。
ここで押せばたぶん勝てる。けれど、その勝ち方をした自分があとで何を失うのかを、もう見ないふりはできなかった。




