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第2章 第9話 倒れるなら、同時

 交流討論会の前日、校舎は妙に整って見えた。


 受付表は完成し、資料は綴じられ、動線の矢印も貼り終わっている。見た目だけなら、準備は順調だった。だからこそ不気味だった。外側が整うほど、中でまだ止まっていないものが目立つ。


 比較サイトは夕方まで更新を止めていた。止まっているのに、その沈黙が次の一手を予告している。誰もが画面を見ていないふりをしながら、次を待っていた。


 真白と九条は会議室で最終確認をしていた。これまで拾った証拠、中心アカウントに近い線、教師側に出す順番、参加校への共有、運営として止めるべき導線。会話は短い。

「先生の承認は?」

「本番直前なら動けます」

「遅い」

「分かっています」

「じゃあ、その前提で組むしかない」

「同意します」

 頂点だった。少なくとも、能力の噛み合い方だけ見れば。真白は九条が次にどこを見るかを先に分かる。九条も、真白が何を守りたいのかを説明抜きで掴む。二人とも少しずつ自分を削りながら、最短距離で前へ進んでいた。


 悠真はその外側で、見える範囲の全部を整えていた。受付に人が溜まりすぎないよう動線を変える。教師の立つ位置を調整する。特定の話題が広がりやすい場所に別の用件を置く。実行委には、比較サイトに触れたくなっても当日朝まで不用意に反応しないよう、一人ずつ頼んで回った。細かくて地味で、けれど崩れたときには一気に効いてくる仕事だった。


「そこまで一人でやるの?」

 コピー室で資料を抱える悠真に、友人が呆れた顔で言った。

「一人じゃないよ。頼んでる」

「頼みすぎじゃなくて?」

「足りないくらい」

 笑って返しながら、悠真は心の中では笑っていなかった。もっと早く手を打てた場所があったかもしれない。もっと先に、真白を止める言葉があったかもしれない。そういう後悔だけが少しずつ重くなる。


 夜の最終打ち合わせでは、真白と九条の連携はほとんど完璧に見えた。比較サイトが本番直前に出すであろう「最終順位」の投稿を逆手に取り、先に証拠と内部構造を押さえる。必要なら、中心に近い複数の生徒を教師側へ同時に出す。討論会そのものを守るために、数人の立場をまとめて切ることも想定に入れる。


「ここまでいけば、ほぼ勝てる」

 真白が小さく言うと、九条は頷いた。

「ええ。表面的には」

「表面的?」

「勝っても、残るものがあります」

「何」

「あなたが何を切ったか、という記憶です」

 九条の言葉に、真白は一瞬だけ息を止めた。そんなことを言うなら止めればいいのに、と怒りたくなった。だが、九条は止めるつもりがないからこそ言っている。そのほうが厄介だった。


 打ち合わせが終わったあとも、真白はしばらく会議室に残った。机の上に並ぶ資料を見ながら、ここまで来たのだと実感する。明日、勝てるかもしれない。なのに、胸の奥は軽くならない。


 窓際には悠真が立っていた。いつからいたのか分からない顔で、外の暗さを見ている。

「帰らないの」

「もう帰る」

 彼はそう言いながら動かなかった。

「真白」

「何」

「もっと早く止めるべきだったかも」

 珍しく、自分への言葉だった。真白は返す言葉を失う。

「ぼくは、ずっと外を整えてればいいと思ってた」

 悠真は窓に映る自分を見ていた。

「真ん中を止めなくても、周りが崩れなきゃ間に合うって」

「悠真」

「でも、たぶん間に合ってない」

 その声は静かで、だから余計に重かった。


 真白はすぐには何も言えなかった。励ましは違う。否定も違う。悠真がいま言っているのは、自分を責めたいからじゃない。本当に、その可能性を見てしまっているからだ。


「まだ決まってない」

 ようやく出たのは、それだけだった。

「うん」

「明日、決まる」

 自分に向けた確認でもあった。倒れるなら、たぶん同時だ。真白と九条が最強に近い連携を見せるほど、その崩れ方も同時になる。悠真はその外側にいて、その意味をいちばん早く理解してしまっている。


 会議室を出たあと、悠真は一人で廊下に残った。蛍光灯の白い光が床に細長く落ちている。もっと早く、もっとはっきり、言うべきだったかもしれない。相手を怒らせても、嫌われても、止めるべき場面があったかもしれない。そう考え始めると、これまで自分がしてきた小さな調整の全部が、足りなかった証拠みたいに見えてくる。


 それでも、まだ終わっていない。終わっていないから、明日もう一度だけ、言葉を選ぶ余地がある。そう思っても、胸の奥の自責は消えなかった。

 もっと早く止めるべきだった。初めてその形ではっきりと、自分の中で言葉になった。


 午前のうちから、真白は自分が疲れているのを分かっていた。睡眠不足ではなく、判断の疲れだ。何を守るために何を切るか、その計算を何度も繰り返していると、だんだん言葉が乾いてくる。九条はその乾き方に慣れている。真白はまだ慣れていない。だから、同じ速度で並んでいること自体が危うい。


 実行委の最終確認で、一年の生徒がぽつりと漏らした。

「明日、普通に始まりますよね」

 その「普通に」に、真白はうまく答えられなかった。普通に始めるために、今夜どこまでやるのかがまだ決まっていないからだ。代わりに悠真が答えた。

「始めるためにみんな動いてる」

 言い切る。約束ではない。けれど、その場では十分だった。真白はその横顔を見て、また少しだけ胸が痛くなる。自分は今、その種類の言葉を置けているだろうか、と。


 夕方、九条との打ち合わせが長引いたあと、真白は空の教室に一人で残った。机の上に並ぶ資料は整っている。論点も整理できている。なのに、手元だけが妙に重い。そこへ悠真が来て、何も言わずに窓を少し開けた。外の冷たい空気が入る。

「頭、熱くなってる」

「分かる」

「分かってるならいい」

 その会話の短さに、真白は少し笑いそうになった。救われる言葉は、いつも大きいとは限らない。むしろ自分は、そういう言葉を忘れかけているのかもしれない。


 九条との連携が最強に近づくほど、悠真は外にいる意味を考えざるを得なくなっていた。外だから見えるものがある。けれど外にいるだけでは止められない瞬間もある。その境目が、もうすぐ来る。悠真にはそれが分かっていた。分かっているのに、まだその先の言い方を決められない。だから夜の廊下で一人になったとき、初めてはっきりと自分を責めた。


もっと早く止めるべきだった、と。

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