第2話 選んだのは、わたし
一年生の橘花音は、その日のうちに駅前で見つかった。家にも学校にも連絡を入れず、駅のベンチでただ時間が過ぎるのを待っていたらしい。大きな事件ではない。警察沙汰にもならない。けれど学校に戻ってきた空気は、どう考えても「何もなかった」では済まない重さを含んでいた。
真白と悠真が一年棟へ向かったのは、翌日の昼休みだった。真白が積極的に動こうとしたわけではない。花音が担当していた文化祭準備の連絡ノートが、偶然二年の教室に届いてしまい、返しに行ったらそのまま担任に「少し様子を見てやってほしい」と頼まれただけだ。巻き込まれた、と言い換えてもいい。
花音のクラスは静かだった。無言ではない。むしろみんな、必要以上によく喋っている。大丈夫だったらしいよ、疲れてただけなんだって、真面目な子だからね。そうやって「これ以上は踏み込まない」という空気を言葉で固めているように見えた。
「橘さんって、もともと責任感強い子?」
真白が近くにいた女子へ何気なくそう聞くと、返ってきた答えは揃いすぎていた。
「うん、すごいちゃんとしてる」
「頼まれると断らないし」
「自分からやりますってタイプ」
どの声にも悪意はない。むしろ好意的だ。だからこそ、その言葉の列が少し怖い。真面目、ちゃんとしてる、断らない、期待できる。どれも褒め言葉の形をしているのに、逃げ道がひとつもない。
教室を出たあと、悠真がスマホを差し出した。花音と同じ準備委員だった生徒から見せてもらったグループチャットの画面である。
「三日前から増えてる」
そこに並んでいたのは、ごく普通の会話だった。『大丈夫?』『花音ちゃんならできるよ』『無理なら言ってね』『でも連絡だけは回してもらえると助かるかな』。どれも優しい。どれも正しい。正しすぎる言葉は、ときどき壁みたいになる。
「これ、だれも責めてないじゃない」
「そうだね」
「だったら」
「責められるより、褒められる方が逃げにくいこともある」
真白は答えなかった。わからない、というより、認めたくないのかもしれない。だってそれは、言葉そのものが悪いと言われているみたいだったから。
放課後、花音のクラスメイトの一人がぽつりと漏らした。
「生徒会の先輩に相談してたみたいです」
「生徒会?」
「副会長の……九条先輩」
その名前を聞いて、真白の中で昼休みの言葉がいやな形で繋がる。美しい言葉ほど、人を逃がさない。
結局、その日の夕方に花音本人と会うことになった。学校ではなく、家の近くの小さな公園で、母親が少しだけ時間をくれたのだ。花音は細い声で、大丈夫です、と何度も言った。大丈夫と言うたびに、大丈夫ではないのが伝わってくる。
「やりたくなかったの?」
真白は責めないように、でも曖昧にもならないように聞いた。
花音は首を振る。
「違います。やりたくなかったんじゃなくて……ちゃんとやりたかったんです」
「ちゃんと?」
「ちゃんと期待に応えたくて。みんな、わたしならできるって言ってくれたから」
「九条先輩も?」
花音は少しだけ目を伏せた。
「『君みたいな人が中心にいると、場がきれいに整います』って」
真白は、その言い方が綺麗すぎると思った。綺麗すぎて、断れない。君は向いている、期待している、助かる。どれも褒めているのに、断る側だけがわがままに見える。
「でも、最後は自分で逃げたんです」
花音は小さく笑った。
「だから、わたしのせいです」
その“わたしのせい”が、真白の胸に引っかかった。違う、と即答したいのに、どこがどう違うのかうまく言葉にならない。
帰り道、悠真が隣で言う。
「九条はたぶん、押してない」
「……なにそれ」
「命令も脅しもしない。ただ、相手がそうありたいと思う像を先に与える」
「最悪」
「うん。でも、たぶん真白もそこに近い」
「近くない」
真白はすぐに否定した。反射だった。
「わたしは、あんなふうに追い詰めてない」
「本気でそう思ってる?」
「思ってる」
その答えに嘘はなかった。本当に、真白にはわからないのだ。自分が何をしたら人が動くのかも、なぜ悠真がそんな顔をするのかも。
翌朝、花音はまだ登校していなかった。教室では、何人かが「無理しなくていいよね」と言い、別の何人かが「でも引き継ぎは必要だよね」と言っていた。誰も悪くない。誰も傷つけるつもりはない。なのに、教室はまた少しずつ、誰かを追い詰める空気を作り始めていた。
真白はその中心に立つ気はなかった。ただ、黙って座っているには、その空気はうるさすぎた。
結局その日、花音の机の周りでは誰も大きな声を出さなかった。静かなまま、必要なものだけが取り上げられ、必要なことだけが確認される。その静けさの方が、真白にはよほど嫌だった。
返却しに来た連絡ノートの最後のページには、花音の字で細いメモが残っていた。『一覧は先に作った方が迷わないと思います』。提案の形をしているのに、どこか謝罪文みたいな文だった。
「これ、誰かに見せた?」
真白が担任へ聞くと、担任は少し困ったように首を振った。
「いや。本人が真面目だった、で終わる話なら、それで終わらせたい」
その“終わらせたい”が、真白には妙に引っかかった。早く丸く収めたい大人の声だ。悪いことではない。けれど、そういう声が重なると、誰の痛みも原因も曖昧なまま消えていく。
帰り道、真白は駅前のベンチをなんとなく見た。花音が座っていた場所だと聞いたからだ。人通りの多い駅前で、誰も彼女を知らないまま横を通り過ぎたのだろう。見つけやすい場所にいたのに、誰にも見つけられない、というのは妙な感じだった。
「考えすぎ」
隣を歩く悠真が言う。
「考えてない」
「顔に出てる」
「いまのわたし、そんなにわかりやすい?」
「真白が“面倒”以外のことで黙るときは、だいたい考えてる」
それは少し悔しかった。
翌日、花音のクラスで引き継ぎの話が出たときも、真白は中心に入るつもりはなかった。ただ、誰もノートを開こうとしないのを見て、机の端を指で叩いただけだ。
「そこ、書いてあるんでしょ」
言われた男子が「ああ、うん」とノートを開く。別の女子が「じゃあ必要なとこだけ抜けばいいか」と言う。さらにもうひとりが「それなら今日中に分けられる」と続ける。真白は何も決めていない。なのに流れだけが前へ出る。
本人たちは、自分たちで決めたと思っている。そのことに真白は少し安心し、少しだけ寒くなった。
放課後、九条が階段の踊り場で待っていた。
「一年の件、聞いた」
「聞くだけにして」
「するよ。ただ、あの子たちには“選ばせた”方がきれいに片づく」
「片づけるために選ばせるの?」
「片づかないよりいいだろ」
敬語を脱いだ九条の言い方は、妙にまっすぐで嫌だった。正しいことだけを残して柔らかいところを削ったみたいな声だ。
「わたし、そんなふうにしてない」
「してないつもりなんだろうね」
真白はその場では言い返したが、翌朝また同じように、誰かの一言目を軽くしてしまった自分に気づいて、少しだけ黙る時間が長くなった。




