第1話 朝は、誰のせいでもなく止まる
四月の教室は、朝からうるさい。
うるさいくせに、前へ進まない。文化祭のクラス展示、その準備の中心を誰がやるのか。黒板の前に立った日直が何度も同じことを言って、誰かが曖昧に笑って、別の誰かがまだ早いと言い、でも締切が今日だという事実だけはその場に残り続ける。新学期の教室には、こういう「誰の責任でもない停滞」がよく似合う。
朝比奈真白は、その渦の少し外にいた。自分の席に鞄を置いて、机の横に掛けて、髪を指で払って、ようやく一息つこうとしたところで、また前の方から困った声が上がる。ああ、面倒くさい。真白の感想はそれだけだった。正義感より先に来るのは、さっさと終わってほしいという切実な願いである。
「真白」
横から呼ぶ声は、いつも妙に静かだ。高瀬悠真は窓際に肘をついたまま、騒ぎの中心ではなく真白を見ている。
「なに」
「もう巻き込まれてる顔してる」
「してない」
「してる」
即答されて、真白は眉を寄せた。悠真は昔からこうだ。騒ぎそのものより、そのとき真白が何をしそうかを先に見抜く。
「放っとけば?」
「放っておいても終わらないじゃない」
「終わらないだけならまだましだよ」
「どういう意味?」
「真白が少し喋ると、きれいに終わりすぎる」
意味がわからない。真白は本気でそう思った。人と話すのは別に珍しくないし、少し会話したからといって何かが変わるわけでもない。悠真はたまに、因果関係を変なふうに結びつける。
黒板の前では、日直の女子がついに「じゃあ後で……」と逃げかけていた。そういう弱い声はだいたい空気に潰される。真白は椅子から立ち上がるつもりもなく、近くの列にいる理子へ顔だけ向けた。
「水沢」
「え、なに?」
「美術部、今年も出るんでしょ」
「出るけど」
「じゃあ展示案、どうせ一回は見ることになるじゃない。最初から入ってた方が早くない?」
「それは……まあ……」
理子はすぐに返事をしなかった。ただ、頭の中で何かの順番が入れ替わった顔をした。
真白はそこで終わりにした。続けて説得する気もないし、したつもりもない。今度は通路を挟んだ向こう側の男子へ視線をやる。
「佐伯」
「なに」
「告知とか申請とか、そういうの早いでしょ」
「褒めてる?」
「面倒なの嫌だよねって意味」
「それ褒めてないな」
「でもそういう人の方が、締切系は回すじゃない」
佐伯は苦笑して、スマホを伏せた。
それだけだった。真白はもう喋ることがなくなって、自分の席へ座り直す。数十秒後、最初に理子が「じゃあ展示案ならわたし見る」と言い、佐伯が「申請系は俺でいい」と肩をすくめ、連絡が得意な別の女子が「じゃあ間はわたし取る」と続けた。勝手に決まり始めた流れに、教室の空気はふっと軽くなる。ああ、終わった。真白はようやくそう思う。
周囲は誰も真白を見ていなかった。助かった、間に合った、それならそれでいい。そんな顔が並ぶだけだ。真白にしてみれば、ようやく座っていられる、くらいの話でしかない。
けれど昼休み、自販機の前で悠真は言った。
「それ、正しいけど危ないよ」
「なにが」
「さっきの、最初からあの三人が動く形にしただろ」
「してないわよ。話しかけただけ」
「真白はいつもそう言う」
「だってそうでしょう」
「本人たちが自分で決めたって思えるように、順番と理由を置いてただけだよ」
本気で意味がわからなかった。真白は缶ジュースのプルタブを開ける。
「それの何が悪いの」
「悪いって決めつけてるわけじゃない」
「じゃあ何」
「おまえ、自分で思ってるより人の決め方に触れてる」
ますます意味がわからない。
そのやり取りを、少し離れた渡り廊下の角で、九条絢人が書類を抱えたまま聞いていた。
「興味深いね」
穏やかな声に、真白は振り返る。生徒会副会長。立っているだけで絵になるような男だと、校内ではよく言われている。真白はそういう評判をあまり信用しない。
「盗み聞き?」
「聞こえてしまっただけです」
九条はわずかに笑って、真白へ視線を向けた。
「美しい言葉ほど、人を逃がさない」
「は?」
「命令じゃないからこそ、断りづらい。そういうこともある」
「わたし、命令なんてしてないけど」
「それはどうかな」
答えになっていない。けれど、その一言だけが妙に耳に残る。
同じ日の放課後、一年生の準備委員の女子が連絡もなく姿を消したと知ったとき、真白はまだ、それが自分たちの話と繋がるとは思っていなかった。
昼休み、文化祭準備委員の仮名簿が回ってきたときも、真白は自分の名前を探しもしなかった。どうせ誰かが勝手に埋めて、勝手に困って、勝手にまた騒ぐ。そういう未来が見えるのに、自分からそこへ飛び込む趣味はない。
ところが名簿を持ってきた学級委員の女子は、真白の机の横で止まったまま困った顔をした。
「朝比奈、これ、理子と佐伯のところだけ空欄なんだけど」
「さっきの三人でいいんじゃない」
「いや、本人の確認がいるって」
「じゃあ聞けば」
「いま二人とも別件で呼ばれてて」
面倒くさい。真白は思わずそう口にしかけて、やめた。代わりに理子の席を見て、そこに置かれたスケッチブックへ視線をやる。表紙に去年の展示写真が挟んである。
「理子、どうせ展示案見てるんでしょ。だったら名前入ってた方があとで揉めないわよ」
たまたま戻ってきた理子は、聞こえてしまったその言葉に肩をすくめた。
「……それは、そうかも」
ついでのように佐伯へも名簿が回る。
「佐伯は申請の字、読めるし」
「そこを理由にされると断りづらいんだけど」
「読めるのは事実でしょ」
「事実だけで人を動かすなよ」
笑いながら言われて、真白は首をかしげた。動かすつもりなんてない。ただ、あとで二度手間になるのが嫌なだけだ。
それでも名簿はあっさり埋まり、学級委員は心底助かった顔で去っていく。周囲の何人かは、何がどう片づいたのかすら意識していない。自然に決まった。そう見えたのなら、それで終わりなのだ。
放課後、文化祭の仮打ち合わせに顔を出した真白は、その場でも同じような停滞を見た。誰が連絡係をやるのか、誰が一年の面倒を見るのか、誰が全体表を作るのか。みんな忙しい顔をしているのに、誰も一番面倒な紙には手を伸ばさない。
真白は自分の椅子へ深く座り直しただけだった。
「連絡表、先に枠だけ作っとけば」
それだけ言って、ペンを転がした。作れ、とは言っていない。作るべきだ、とも言っていない。ただ、そうした方が早いと口にしただけだ。
すると斜め前の一年男子が「あ、それなら俺やります」と言い、隣の女子が「じゃあ配布は私で」と受ける。すぐに別の誰かが日付を書き込み始める。
真白はその流れを見て、妙に居心地が悪くなった。たまたまだ。そう思う。そう思うのに、悠真は後ろの壁にもたれたまま、またあの顔をしている。
「真白」
「なによ」
「いまの、何気ない一言の顔じゃなかった」
「何気ない一言だったわよ」
「真白にとってはね」
その返しにむっとしたところで、会議室の入口から九条が入ってきた。配布資料の束を片手で持っているだけなのに、部屋の空気がほんの少し引き締まる。
「手際がいいな」
九条は打ち合わせの進み具合ではなく、真白の前に置かれた埋まりかけの表を見てそう言った。
「別に、わたしがやったわけじゃないけど」
「そうだろうね」
その否定しきらない言い方が気に障る。真白が睨むと、九条は笑みとも皮肉ともつかない薄い顔で言った。
「君は、わざわざ押さないのがうまい」
「意味わかんない」
「だろうね」
そのあとで、一年の女子がひとり足りないと連絡が回ってきた。橘花音。打ち合わせに来るはずだった名前だ。誰もまだ深刻には受け取っていない。遅刻か、連絡忘れか、その程度だと思っている。
けれど真白は、空いた椅子が一脚だけ妙に目立つことを、なぜか忘れられなかった。




