完璧美少女の秘密
翌日の放課後。
「神谷くん」
教室を出ようとした俺を呼び止める声がした。
「今日、約束していましたよね?」
「ああ、そうだね」
昨日の約束どおり、俺たちは空いている教室へ向かった。
夕方の教室は静かだった。
窓から差し込む橙色の光が、机の上に長い影を作っている。
「じゃあ、今日はこの問題からやってみようか」
「……はい」
白石さんは問題集を開いた。
「……」
「……」
「……分かりません」
「早っ」
「だって分からないものは分からないです」
「まだ問題文しか読んでないよね?」
「問題文を読んでも分からないんです」
彼女は真剣な顔で答えた。
俺は思わず笑ってしまう。
「何がおかしいんですか」
「白石さんって何でもできるイメージがあったから」
「……それ、よく言われます」
「やっぱり?」
「はい。でも……」
少しだけ視線を落とした彼女はゆっくりと口を開いた。
「何でも.......できるわけ......じゃないん.....ですよ」
「そうなの?他に苦手なこともあったり?」
「料理も苦手です」
「意外」
「運動も普通です」
「それも意外」
「あと……」
少し迷ってから話した。
「朝、起きるのも苦手です」
「それは普通じゃない?」
「……神谷くん」
「はい」
「笑いましたよね?」
「ちょっとだけ」
「もう教えてあげません」
「ごめんごめん」
白石さんは頬を少し膨らませた。
学校ではいつも落ち着いていて、誰にでも丁寧に話す。
そんな白石さんがこんな顔をするのは、かなり意外だった。
「でも、なんか安心した」
「何がですか?」
「白石さんも普通の高校生なんだなって」
「……普通」
白石さんは、その言葉を小さく繰り返した。
「私、ずっと『完璧だね』って言われるのが、少し苦手だったんです」
「どうして?」
「完璧じゃないところを見せたら、がっかりされる気がして」
「そんなことないと思うけど」
「……神谷くんは、そう言ってくれるんですね」
「だって実際、完璧じゃないし」
「ひどいです」
「ごめん」
また笑ってしまった。
白石さんも笑う。
その笑顔は、学校で見せているものとは少し違っていた。
「今日はここまでにしようか」
「はい。ありがとうございました」
問題集を閉じる。
時計を見ると、もう外はかなり暗くなっていた。
「帰ろう」
「はい」
教室を出る。
廊下を歩いていると、白石さんがふと口を開いた。
「神谷くん」
「ん?」
「この前も一緒に帰りましたよね」
「ああ」
「……今日も、一緒に帰ってもいいですか?」
「いいけど」
俺たちは並んで歩き始めた。
校門を出てしばらくすると、白石さんが言った。
「私、高校に入ったら、もっと普通に過ごせると思っていたんです」
「普通に?」
「はい」
「今は普通じゃないの?」
「入学してから、ずっと『白石さんってすごいね』って言われて」
「まあ、実際すごいと思うけど」
「……そういうところです」
「え?」
「いえ、なんでもありません」
白石さんは小さく笑った。
「でも、神谷くんといると……」
「うん」
「普通でいられる気がします」
「それはよかった」
白石さんは少し黙ってから、前を向いた。
「……楽しいです」
「え?」
「こうやって誰かと一緒に帰るの」
「そう?」
「はい」
白石さんの声は、いつもより少しだけ明るかった。
その頃。
俺たちが歩いている道の少し先に、一人の女子がいた。
「……陽翔?」
美咲だった。
偶然、買い物帰りに通りかかったらしい。
美咲は、俺と白石さんの姿を見つけて立ち止まった。
「……また一緒に帰ってる」
二人が楽しそうに話している。
白石さんが笑う。
俺も笑う。
その光景を見て、私は、胸が痛くなるような感じがした。
「……嫌だな」
昨日までなら、こんな気持ちになることはなかった。
でも今は違う。
陽翔が誰かと一緒にいるだけで、気になってしまう。
「……私、こんなに嫉妬するんだ」
美咲は二人に気づかれないように、別の道へ曲がった。
翌朝。
「おはよう、陽翔」
「おはよう、美咲」
いつも通り、俺たちは一緒に学校へ向かう。
「昨日、何してたの?」
「昨日?」
「放課後」
「ああ。白石さんと一緒に勉強するっていってただろ」
「……そっか」
「うん」
「楽しかった?」
「まあ、楽しかったかもな」
「……ふーん」
美咲が頬を膨らませた。
「どうした?」
「なんでもない」
「昨日からそればっかりだな」
「陽翔が鈍いだけ」
「俺?」
「そう」
美咲は前を向いた。
俺には、その意味がよく分からなかった。
教室に着くと、白石さんが挨拶をしてきた。
「神谷くん、おはようございます」
「おはよう」
「昨日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「……また、お願いしてもいいですか?」
「ああ」
「よかった」
白石さんが笑った。
その笑顔を見ながら、俺は思った。
最初は「完璧な人」だと思っていた。
でも、実際に話してみると、数学が苦手で、料理も苦手で、朝も弱い。
意外と普通の女の子だった。
ただ――。
俺はまだ知らなかった。
白石怜奈という女の子が、少しずつ俺に心を開き始めていることを。
そして。
「神谷くん」
「ん?」
「今日も、一緒に帰りませんか?」
その誘いが、ただの「勉強のため」ではなくなり始めていることを。
もちろん、このときの俺には――。
そんなことを考える理由すらなかった。




