放課後の勉強会
「……本当に俺でいいの?」
俺はもう一度そう聞いた。
白石怜奈は、俺の向かいの席に座ったまま、小さく頷く。
「うん」
「あれ?白石さん、新入生代表でしたよね?」
「それが何?」
「いや……勉強できるんじゃないの?」
「……できないわけじゃない」
「じゃあ、なんで?」
白石さんは一瞬だけ視線を逸らした。
「数学が、少し苦手なだけ」
「少し?」
「……少し」
その言い方が妙に引っかかった。
俺は机の上に置かれた彼女のノートへ視線を落とす。
「あの、じゃ、じゃあ、どこが分からない?」
「ここ」
白石さんが指差したのは、さっきまで俺が苦戦していた問題だった。
「……俺も、ここで三十分くらい止まってたんだけど」
「そうなの?」
「うん」
「じゃあ、ちょうどいい」
「何が?」
「私だけが分からないわけじゃないって分かったから」
そう言って、白石さんはほんの少し笑った。
その笑顔に、俺は一瞬言葉を失った。
「……どうしたの?」
「いや」
慌てて視線をノートへ戻す。
「白石さんって、笑うんだなと思って」
「え?」
「なんか、入学式のときからずっと真面目そうだったから」
「それ、褒めてるの?」
「褒めてる」
「……そう」
白石さんは少しだけ顔を赤くした。
そして、なぜかさっきより姿勢を正した。
「それより、問題」
「あ、そうだな」
急な切り替えに戸惑いつつも、俺はシャーペンを持った。
「まずは.......ここから考えてみよう」
「つまり、ここでこうなるから……」
「待って」
「ん?」
「なんでそうなるの?」
「え?」
「さっきから三行くらい飛んでる」
「あ」
俺はノートを見返した。
「ごめん。頭の中では分かってたんだけど」
「説明するの、苦手?」
「……初めて人に教えたから」
俺は苦笑いした。
「じゃあ、もう一回最初から」
「分かった」
俺は一つ一つ説明し直した。
自分では当たり前だと思っていた部分も、言葉にすると意外と難しい。
でも、白石さんは途中で嫌そうな顔をすることもなく、分からないところがあればすぐに質問した。
「じゃあ、この数字は?」
「そこは、さっきの式を使って……」
「こう?」
「そうそう」
「……分かった」
白石さんが問題を解き終える。
「うん、合ってるね」
「本当に?」
「ああ」
「……やった」
白石さんは小さく拳を握った。
その姿を見て、思わずにやけてしまった。
「何?」
「いや」
「笑った」
「笑ってない」
「笑った」
「笑ってない」
「……何か変だった?」
「ちょっとだけね」
「何よ...それ」
さっきまで「新入生代表の完璧美少女」だった白石怜奈が、たった一問解けただけで嬉しそうにしている。なんだか少しだけ親近感が湧いた。
「白石さんって、そんな風に笑うんだね」
「……悪い?」
「いや、いい意味でね」
「いつもの私ってそんなに怖い顔してる?」
「うん」
「ばかにしてるわね」
「してないって」
白石さんは少し黙った。
そして、窓の外を見る。
「……私も、普通の女の子のようにいつも笑顔でいられたらいいのにな」
「そうなの?」
「え?」
「自分らしくあることってすごく大事なことだと思うけど」
「簡単に言うのね」
白石さんの声は、さっきより少し小さかった。
「みんな、私を見てるから」
その言葉で、俺はなんとなく理解した。
今日一日だけでも、白石さんはずっと注目されていた。
入学式では新入生代表。
教室では男子たちの視線。
休み時間には女子たちも彼女の周りに集まっていた。
きっと、本人が望んでいなくても「白石怜奈」という存在を周囲が特別扱いしてしまうのだろう。
「そっか」
俺はノートに視線を落とした。
「でも、俺は普通に話すけど」
「え?」
「だって白石さんも普通の高校生だろ?」
「……」
「数学で困ることもあるし、一問解けたら嬉しい」
「……」
「だったら、普通に話していいんじゃない?」
白石さんは驚いた様子で俺を見ていた。
「……神谷くんって、ちょっと変わってるわね」
「ばかにしてる?」
「いや、いい意味でよ」
一瞬、沈黙した後、白石さんが笑った。
「ふふっ」
「ははっ」
二人で顔を見合わせながら、笑い合った
それから、俺たちはしばらく勉強を続けた。
気づけば、窓の外はすっかり夕暮れになっていた。
「今日はこのくらいにする?」
「……もうそんな時間かしら」
白石さんが時計を見る。
「もう六時過ぎてるぞ、三時間くらいやってたっぽいね」
「集中してたからあまり気づかなかったわね」
白石さんは驚いたようにノートを見つめた。
「……楽しかった」
白石さんが、ぼそっとつぶやいた気がした。
「何か言ったか?」
「何にも」
「そうか」
まさか俺との勉強が楽しかったと言いたかったのか?いやいや学校一美少女の彼女が俺なんかといてそんなことを思うはずがない。
「本当に、そういうところよね」
白石さんがまた何かつぶやいた気がした。
「また何か言った?」
「言ってない」
急に立ち上がった彼女の顔は夕日に照らされているのか少しだけ赤かったように感じた。
「……帰る」
鞄に教科書をしまい始める。
「待って。どうかした?」
「何でもないわよ」
……女子って難しい。
俺も鞄を持ち、教室を出る準備をした。
「時間も遅いし、送っていこうか?」
「……いいの?」
「方向、一緒なの?」
「分からないけど、心配だし」
こんな時間にこんな美少女が夜道を歩いていたら、危険だろう。
「東方面のマンションだけど」
俺の家と同じ方向だった。
「なら、同じ方面だ」
俺たちは並んで学校を出た。
辺りはすっかり暗くなっていた。
昼間とは違い、街は静まりかえっていた。
会話がなく沈黙が続いた。
俺は何か話した方がいいのかなと思ったが、何を話せばいいのか分からない。
「神谷くん」
沈黙をかき消すかのように彼女が話し出した。
「なに?」
「今日はありがとう」
「勉強のこと?」
「そう」
「別にいいよ、俺も楽しかったし」
「また、分からなかったら聞いてもいいかしら?」
白石さんは足を止めた。
「いいよ、いつでも聞いて」
「迷惑じゃないかしら?」
白石さんは俯きながら言った。
「私は、神谷くんの時間を使わせることになるから」
その言葉に、俺も足を止める。
「だから、自分らしさって大事って言ったよ?」
「え?」
「隙のない白石さんの方がいいってことだよ」
「……」
「だから気にしなくていいよ」
白石さんはしばらく黙っていた。
それから、小さく頷く。
「そうだったわね」
「うん」
再び歩き始める。
そして、マンションの前に着いた。
「ここ」
「うん、じゃあ俺こっちだから」
「……神谷くん」
「ん?」
白石さんは何か言いかけた。
しかし、すぐに首を横に振る。
「ううん。また明日」
「ああ」
俺は手を上げて、そのまま家へ向かった。
後ろから白石さんが俺を見ていたことにも気づかずに。
「ただいま」
「おかえりー」
家に帰ると、妹の声が聞こえた。
「遅かったね」
「勉強してた」
「また?ガリベンめ」
「失礼だな、努力家と呼べ」
「一人で?」
「いや、クラスメイトと」
「へえ」
妹が意味ありげな顔をする。
「女の子?」
「なんでそうなるんだよ」
「女の子なんだ」
「……」
しまった。
「ママー!、おにいが女の子とーーー」
俺はため息をついた。
自分の部屋へ向かう。
鞄を置き、ベッドに倒れ込んだ。
今日は長い一日だった。
高校の入学式。
新しいクラス。
そして。
新入生代表、白石怜奈。
入学式では、遠くから見るだけの存在で、一度も関わることが無いと思っていた。
でも今は、数学を一緒に勉強した。
「不思議な感じだな」
俺は天井を見上げる。
明日からは、また普通の学校生活が始まる。学校では、話す機会はないだろうと。
そう思っていた。
このときの俺は、まだ知らなかった。
翌朝。
俺の家の前で、幼馴染の美咲が怒った様子で待っていた。
「昨日、白石さんと一緒に帰ったの?」




