EP 9
過労の空神。命を燃やすV・T・O・L
上空から見下ろす太平洋は、おびただしい数のミサイル航跡と、沈みゆく艦艇の炎で、まるで地獄の釜の底のように煮え滾っていた。
その血の海を、護衛艦『出雲』が、中国空母『福建』へ向けて最後の突撃を敢行している。
「……出雲(俺の寝床)を、勝手に沈めようとすんじゃねえよ」
鉛色の雲を引き裂き、一機のF-35Bが急降下してきた。
平上雪之丞1尉。開戦から休むことなく飛び続け、過労と蘭の強制電気ショックで神経を焼き切られながらも、彼はまだ生きていた。
ステルスウェポンベイ(兵装庫)のミサイルは、すでに空っぽ。残されているのは、腹部に外付けされた25mm機関砲の弾薬、わずか220発のみ。
『——日本のステルス機だ! 迎撃しろ!』
出雲を狙っていた中国の最新鋭ステルス戦闘機『殲20(J-20)』四機からなる編隊が、雪之丞へ向けて機首を跳ね上げた。
数的な絶対的不利。さらに相手は完全武装。
だが、雪之丞の充血しきった瞳には、一切の恐怖はなかった。
「……お前らさ。残業代も出ねえのに、なんで俺がこんなに働いてるか、分かるか?」
雪之丞は操縦桿を限界まで倒し、J-20の放った空対空ミサイルを、機体が空中分解しかねない変態的なバレルロールで紙一重に躱した。
「……あの出雲の甲板で昼寝する時間が、俺の人生で一番、最高だったからだよ」
すれ違いざま、雪之丞はガンポッドのトリガーを引いた。
ダラララララララッ!!
25mm徹甲焼夷弾が、一機のJ-20のコックピットを正確に撃ち抜き、空中で火ダルマに変える。
だが、残る三機のJ-20が即座に散開し、雪之丞の背後を完璧に捉えた。
『——ロックオン。落ちろ、日本の狂犬』
中国パイロットが、赤外線誘導ミサイル(PL-10)の発射ボタンに指を掛けた、その瞬間。
「……蘭ちゃん。あの世に行ったら、銀座のタルト、俺が奢ってやるよ」
雪之丞は、酸素マスクの中で血の混じった唾を吐き捨て、F-35Bの『禁断のスイッチ』を押し込んだ。
それは、垂直離着陸(VTOL)の際に使用する、機体中央の「リフトファン」と「推力偏向ノズル」の強制作動スイッチ。
通常、時速一千キロを超える音速での空中戦でこれを使用すれば、機体のコンピュータがエラーを起こし、パイロットは凄まじいG(重力加速度)に耐えきれず死に至る。
航空力学を根底から覆す、自爆同然の『前進飛行中の推力偏向(VIFF)』マニューバ。
「……ア、ァァァァァァァァァァァッ!!!!」
ギュオォォォォォォォォォォォンッ!!!!
時速一千キロで飛んでいたF-35Bが、空中で『あり得ない急ブレーキ』を踏んだ。
機首が不自然に跳ね上がり、機体が空中にピタリと静止するような、物理法則を無視した完全な失速状態。
「な、何ッ!? 空中で、止まった……!?」
背後に張り付いていたJ-20のパイロットが、悲鳴を上げた。
回避不能。猛スピードで追尾していた中国の戦闘機は、突如として目の前で停止したF-35Bを追い抜き(オーバーシュート)、無防備な背中を雪之丞の前に晒してしまった。
「……捕ま、えた……ぜ」
雪之丞の体は、限界を超えたマイナスGによって、すでに崩壊し始めていた。
眼球の毛細血管が弾け飛び、視界が真っ赤に染まる(レッドアウト)。鼻と口、そして耳から大量の血が噴き出し、酸素マスクの中を満たしていく。
肋骨が何本も折れ、肺に突き刺さっているのが分かった。
それでも、震える指は、ガンポッドのトリガーを離さなかった。
ダラララララララッ!!!!
残りの25mm機関砲の弾丸が、雪之丞の命を削る絶叫と共に、追い抜いていったJ-20の背中に全弾叩き込まれた。
二機のJ-20が、エンジンを粉砕され、黒煙を引きながら太平洋へと墜落していく。
「……はぁっ……はぁっ……! ……どうだ、おっさん……。これ、で……」
ミサイルも、機関砲の弾も、そして自分自身の生命力も、文字通りすべてを撃ち尽くした。
Gの負荷によって完全に機体制御を失ったF-35Bは、アラートを鳴り響かせながら、もはや飛ぶ力を失い、キリモミ状態で海面へと落下し始めた。
薄れゆく意識の中、雪之丞の赤い視界の先に映ったのは——。
自分という『盾』が空から降り注ぐミサイルを食い止めたことで、ついに中国空母『福建』の目と鼻の先、わずか数百メートルまで肉薄した、燃え盛る巨大な護衛艦『出雲』の姿だった。
「……あとは、頼ん……だ……」
昼行灯と呼ばれた空の天才。
日本の盾として、己の血の一滴まで燃やし尽くした平上雪之丞の乗る機体は、最後に小さな水柱を上げ、冷たい太平洋の底へと沈んでいった。
* * *
「雪之丞ォォォォォォォォォォォォォッ!!!!」
出雲の艦橋で、肉眼で空を見上げていた早乙女蘭が、絶叫した。
彼女の目から、血の混じった涙が止めどなく溢れ出す。
「……上等だァ。てめえの残業代、高くついたな、バカ野郎ッ!!」
坂上真一は、雪之丞が沈んだ海へ向けて咆哮し、そして、目の前に立ちはだかる巨大な壁——中国空母『福建』の土手っ腹を睨みつけた。
距離、五百メートル。
もはや、どんなミサイルも、どんな小細工も間に合わない。
絶対的な質量の激突。
「沈の坊ちゃんッ!! 閻魔大王に挨拶してきなァァァァァッ!!」
ズゴォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!
時速三十ノット(約六十キロ)で突進した二万トンの鋼鉄の塊(出雲)の艦首が、中国の誇る八万トン級最新鋭空母『福建』の右舷中央部に、凄まじい衝撃音と共に真っ向から突き刺さった。
空母の装甲が紙屑のように引き裂かれ、飛行甲板に並べられていた戦闘機が次々と海へ転げ落ちる。
出雲の艦首が福建の内部深くまで食い込み、巨大な火花と爆発が両艦を包み込んだ。
太平洋のど真ん中。沈提督の築き上げた『絶対封鎖線(鳥籠)』の中枢が、日本のヤクザ将軍の狂気によって、完全に物理粉砕された瞬間であった。




