第9話「憧れの秘密」
涙の跡が、頬に残っていたから。
誰に泣かされてしまったのか、心配もあり、僅かな悔しさもあり。
恋人みたいな距離感で肩を抱く女の存在を目にしたのもあって、まさかそいつに傷付けられてないよね?と。
身の丈に合わない感情を抱いた。
「あたし、南未。この子は、瑞月」
「何か、悲しいことでも?」
「あぁ……泣き虫なんだよ、こいつ。今は失恋して」
「っち、ちょっと!南未」
——失恋?
あわあわと、慌てて話を逸らした灰原さんは、「なに飲みたい?」とメニュー表を差し出してくる。人前だからか、それとも単なる気まぐれか。いつものように、手が触れるようなことはなかった。
しばらく、頭に入ってこない文字列を見下ろしたまま、硬直してしまった。
誰かに恋をしていたんだ、という事実は思っていたよりも遥かに心臓を刺してきたせいだ。理由は、不明。考えたくもない。
「失恋中なら、私と付き合います?瑞月ちゃん」
カウンターの向こう、“ママ”と呼ばれる女性の隣。いかにもモテそうな店員の女性が、軽々しく口説いていた。
「……チャラい人は、無理。嫌い」
本人が露骨に嫌悪感を示していたことには、ホッと胸を撫で下ろした。目の前で交際が成立していたら、気まずいことこの上ない。
上司の恋愛事情に口を挟むつもりは毛頭ないが、憧れの人だ。どうせなら、幸せな恋愛をしてほしい。
そう願うのは、部下として出過ぎた真似だろうか。
「そ、それより……祥子さん?」
「はい」
何か、言いたいことでもあったんだろう。隣へ近付いてきた灰原さんを見つめ、次の言葉を待つ。
「どうして、ここに?」
当然の疑問だ。
このバーは、同性愛者の女性が集まる憩いの場だという。バイセクシャルで、現在は同性のパートナーがいる竹本の羽を伸ばすため、初めて私も足を伸ばした。
「友人の、付き添いで」
「そ、そう」
「灰……瑞月さんは?」
関係性を周りに悟られないよう名前で呼ぶと、灰原さんは嬉しそうに口元をモゴモゴさせた後で、同じく「付き添い」だという。
——なら、彼女は別に同性愛者ではない?
てっきり彼女もまた竹本と同じバイかレズビアンのどちらかだと推測していたものの、どうやら外してしまったらしい。
まぁ、どちらでも。
私には、関係のない——
「ぁ、の」
耳打ちで話したい雰囲気を醸し出すから、体を傾けたら、
「ここで会えて、嬉しい」
ほんの、少し。
掠れて、吐息を混ぜた声が、ダイレクトに鼓膜を揺らした。
周囲の雑音をかき消すほどの衝撃を受け、呼吸の仕方を忘れる。そこへ、さらに裾をつまむ指先の愛らしさが加わって、ぶわりと全身に血液が巡った。
この人、は。
「日暮さんも……女性が好きなの?」
違う。
「いや……私は」
否定しようとして、持ち上げた唇は、乾燥していて。
喉の乾きが気になって唾を飲んだら、その口元を見下ろした瞳が、虚ろに溶けているのが見えた。
まるで、お腹が空いたところへ、甘美な食べ物を見つけたみたいな。それしか、視界に映っていないような、目の色。
どうして、そんな目。
どうして、そんないやらしい目つきを、するんだろう?
浮かんだ疑問は、それだけじゃない。
——“も”?
聞く前に、答えなければ。灰原さんからの、質問に。無視されたと、傷付けてしまわないように。
「男も女も、興味がありません」
なかった。が、正しい。
「そう……なのね」
同類ではなかった落胆が、垂れ下がった眉に現れる。
この人は、もしかして。
「灰原さんは……?」
答え合わせのため、覗きこんだ先。
「すき」
赤いリップの唇が、跳ねた。
「女の人が、好きなの」
正直に、包み隠さず提示してくれた相手は、きっと不安で仕方がないんだろう。手は小さく震えていて、交わる視線も逃げたい気持ちを隠しきれず、泳いでいる。
——なんだ。
よかった。
同性が好きなら、杞憂じゃないか。
男性社員と付き合う未来なんて、最初からなかったんだ。
眼中にもないから、触れたことさえどうでもよく、反応しないだけだったんだ。
「会社の人には、内緒にしてくれる……?」
「もちろんです」
ひとつ、大きな安堵と秘密を手にしたところで、小指同士を引っ掛けた。誰にも見られないよう、カウンターテーブルの下で。
靄も、少しばかり晴れた。
「乾杯、しましょ?」
「はい」
今夜は、良い夢が見られそうだ。




