第45話「実質……ね?」
“あくまでも、将来のための学習”という言い訳を手にしてしまった私は、許してくれた範囲内で好き勝手やらかしてしまった。
その中で、恋人同士のイチャイチャが、どれだけ生々しいものなのかも知った。
ハグまでと言ってもできることはたくさんあって、その全てが私の想像を遥かに越えていて、当たり前だけど友達や家族とはまるで違う。
「ふふ。どう?膝枕」
「……恥ずかしいですね」
試すたび、灰原さんはニコニコ微笑む。今は窓からの逆光も相まって、女神様みたいに眩しい。
穏やかに私の頬や髪を撫でながら、たまにむにっとつままれたり。こうして触れ合うことで甘やかされるのは幼少期以降あまりなかったから、なんだか。
「みんなが、恋をしたくなるのが分かりました」
「そう?」
「はい。これはいいですね」
ホッとして自然と弛緩する感覚を言い表すならば、まさに“癒やし”以外の何者でもない。
信頼を置ける人に、信頼を置けるからこそできる行為をしてもらって、安心感に浸る。孤独も薄れ、愛情も深まる。
これだけ良いこと尽くしなんだから、そりゃ世の中の多くの人がしたくなるのも頷けた。
おまけに、私の場合は灰原さんという憧れの人と。
確率的には、どのくらいなんだろう?
多分、奇跡に近い。
「——次は、腕枕。してくれる?」
「わ、私が……?」
「うん。だめかな」
「や。よ、喜んで」
ベッドの上へ招きこまれたら、普段はあまり信じない運命とかも頭を霞むほど、思考力は蕩け落ちた。
「思ったより、近いね」
「そ、う……ですね」
灰原さんは無邪気に呟いて、私だけが今にも崩壊しそうなほど意識している。
けど、悲しくはならない。
皮膚と脂肪を浅く潰し、骨にかかる頭の重さと、甘い香りのする髪の滑らかさ。そして、目と鼻の先にあるあどけない表情。
この光景が、この感覚が得られるだけ、私は最上級の幸せ者だから。
「……瑞月さん」
見つめていると、体が勝手に動く。
「なーに」
柔和な声に受け止められながら、頬をくすぐる。相手は嫌がる様子もなく、まぶたと眉を垂れ下げた。
不思議と、次にどうしたらいいのかが分かる。なぜか、と聞かれても答えられないのに、本能が訴えかけている。
抱きしめるフリで、上半身だけ起き上がらせて、シーツと自分の間に挟むようにして。
そこまで来たら、灰原さんも察したんだろう。
「……いいよ」
確認するまでもなく、許可が降りた。
前回とは違い、心はひどく穏やかな波を保っていた。
視界を閉じた暗闇の中で、親指で確かめた位置を頼りに、顔を落とす。
——熱い。
間違いではなく、自らの意思で奪う唇の感触は、比べものにならないほど鮮明に脳へ刺激を流した。
「ごめんなさい……瑞月さん」
ルールを、破って。
それも、“交際前にしない”と頑なに決めていたのは、私なのに。
「……いいのよ」
罪悪感で溺れそうになったところを、両頬を挟まれ、落ち込んだ気持ちごと掬い上げられる。
「私も、したかったから」
嬉しい——と綻んだ口元に、また。
「ん、う」
今度はただ押し当てるだけでなく、ついばんで、軽く吸いついて。
驚いて薄く開いた口へ、舌を——
「っ……す、すみません」
差し出そうとして、やめた。
勢いよく首を後ろへ引いた後で、すぐ謝るため下げる。結果的に鎖骨へコツンと額をぶつけた私にも、灰原さんは怒ることなく「へいき」と小さく呟いた。
激しく脈打って止まらない心臓を落ち着けるため、深く息を吸って、吐く。その間、何も言わずに後頭部や背中を撫でてくれていた。
「落ち着いた?」
「は……はい。だいぶ」
「ん、ふふ。慣れてなくてかわいー」
「お恥ずかしい限りです……」
「んーん。好きよ、そういうとこも」
だめなところさえも優しく受け止めてくれた相手に、いよいよ。
「付き合う前、なのに……嫌じゃないですか?」
感情に身を任せてしまわないよう、質問を投げた。こんな自分を叱ってくれと、謝りたい気持ちで。
頭上からは「んー……」と思考する声が聞こえ、
「今までの人だったら、冷めてたかも」
すごく、等身大の感想を貰えた。
当然ながら過去の恋人とは交際前に肉体関係を持つようなことはなく、告白されるまでは手も繋がなかったらしい。
とにかく軽薄なのが嫌いで、軽率な行動も苦手な彼女からすれば、今回のことはイレギュラー。人生でも、おそらく二度とない経験だという。
——本当に、ごめんなさい。
反省して、自尊心は地へ転がり落ちかけた。
「でも、許せちゃうかな」
地獄から引っ張り上げてくれたのは、灰原さんのあっけらかんとした物言いで。
「どう、して」
そんなにも広い心で、私と関わってくれるのか。
想像力の欠如により卑屈になって涙を浮かべた私に、ふっと笑いかけてくれた。
「だって……今って、これ婚約期間中みたいなものでしょ?」
「婚約、ですか」
「うん。ふたりでこれから先の人生、ちゃんと生きていけるか……確かめてる段階なんだよね?」
それは、そうかもしれない。
付き合うというのは、私にとってはそのくらいの意味合いを持ち、それ故に軽々しく「付き合おう」とは言い出せなかった。
ちゃんとお互いを知って、病める時も健やかな時も互いを支え、尊さを分かち合い、愛し続けられるかどうか。
ある程度分かってないうちは、恐ろしくて人生を預けられない。相手の人生も、無責任に背負えない。
だからこその交際前の、このよく分からなかった関係性を、
「結婚する前の、婚約中のカップルと似てない?」
彼女は、正確に言語化してくれた。
腑に落ちて、なんだか心がスッキリした。
「だから、平気。いくらキスされても」
実質、付き合ってるも同然。
なら。
「最後まで、しても」
私の脳内と、彼女の声が合わさった瞬間だった。
その瞬間だ。ダムが、決壊しそうになったのは。




