第43話「抱きしめたら、より」
おうち、デート。
約束をした瞬間から今日この時まで、脳の大半を埋め尽くしたイベントが、早くも訪れた。訪れてしまった。
昼から夜まで、たっぷりと楽しめる時間を提案してくれたのは灰原さんで、何時間も彼女と同じ空間にいて耐えられるかどうか。自分の下心を恨みつつ、長く過ごせることには小さなガッツポーズを決めた。
電車と徒歩で数十分。
「——いらっしゃい」
「お、おはようございます」
インターホンを鳴らすと現れたのは、モコモコ生地のパジャマに身を包んだ灰原さんだった。
想像していたのは大人びたネグリジェだけど、これはこれで……かわいい。そして何より、露出が少ないのはありがたい。
「どうぞ、あがって?」
「はい」
家の中へ招く際、喜びを隠しきれておらず控えめな弱さで腕を引かれた。それだけで、既に心臓は壊れそうなくらいバクバクして、開始早々抱きしめたくなる。
——今日、大丈夫かな。
間違いだけは犯さないように、戒めて、諌めて、とにかく理性はフル稼働。
「お茶出すね。あったかいのでいい?」
「はい。あ……お茶菓子を買ってきたので、よければ一緒に」
「え〜、なに買ってきてくれたの?」
「クッキーです」
好き嫌いをまだ把握しきれてないから、シンプルなものを選んだつもりだけど、灰原さんの口に合ってくれるかな。
「ありがとう〜。クッキー好きなの」
よかった。
不安で表情に注視していたら、本当に嬉しそうに笑ってくれたから、安心した。
「他に、何が好きですか?甘いもの」
「なんだろう……シュークリームとか?」
「おいしいですよね、私も好きです。クリームは何派ですか?」
「んー。ダブルクリーム派かなぁ」
「いいですね」
会話の中からさり気なく聞き出しては、心の中でメモ。帰ってから、紙に書き出しておこう。こういう些細なところでの把握も、交際の役に立つかもしれない。
「……こんにちは」
この家の、第二の主であるテディベアにも忘れずに挨拶を交わした。
ふわふわの手を握って持ち上げると、なぜか灰原さんが照れ笑う。大切にしているのが伝わって、それなら私も。同じ温度感で大切にしてあげたい。
「ひ、ひぐれちゃん」
「……ん?」
「名前。ひぐれちゃんって、いうの」
私の名前を模したぬいぐるみだと知り、余計に。
きつく締まる喉元からは「かわいい」と「好き」ばかりが溢れそうになって、もはや苦しい。
振り向くと、お腹の辺りで組んだ指をもじもじさせている灰原さんがいて、視界に入れてしまったことをさっそく後悔した。
今日は、肉体的な接触は避けたかったのに。
「瑞月さん」
もう包み込んでしまおうと、愚かにも一歩近付いたら、思い出したように灰原さんの口が開いた。
「あ!ルール」
「ルール……?」
「その、ね。付き合うまで、どこまでしていいか。ふたりで決めたいなーって思ってたの」
「……確かに。認識を揃えるのは、大切ですね」
どこまで——気持ちはどこまででもいいくらいだが、そんなことを言ったら「まだ付き合ってもないのに、不誠実な人」と嫌われてしまいそう。
ひとまず丸いローテーブルのそばで腰を落ち着けて、淹れてくれた紅茶を片手に相談し合うことに。
「私は……できる限り、慣れておいた方がいいと思うの。いきなりぶっつけ本番は、怖くない?」
「そ、そうですね。私が何もかも初めてなので、慣らしは必要かな、とは」
ただ、最後までしてしまうのは、さすがに。交際前の準備にしては、やりすぎな気がする。
でも、そうだ。竹本も「付き合う前に体の相性を確認するのは大切」と話していた。その理論で考えるならば、交際前に一度くらい試しておくべき……?
いや……待って。ここは、灰原さんの意見を先に確認しておこう。
「灰原さんは、どこまで……したいですか?」
「……う、うぅん」
彼女も彼女で境界線の位置をどこに敷こうか悩ましく眉をひそめていて、答えが出るまでじっと待つ。
紅茶本来の華やかな香りを味わいつつ、内心はドギマギと硬直しそうになっていた。もし、「最後までしたい」なんて願われた日には、今日のうちにさっそく叶えてしまいそうで。
まだ何も起きてないというのに崩壊寸前間近な私の心情を知ってか知らずか、テーブルを挟んで向こう側にいた灰原さんが、わざわざ隣へ移動してくる。
そして、触れた。
「ハグ、だけ」
太ももに、指先が当たる。
そのまま、するりと手のひらまで当てられた。
「今日は……それだけにする」
眼下に広がっているのは、我慢強くておねだり上手な蕩けた瞳で、意志の強さが伺える。
正直、拍子抜け——いや。
触れてもいいと許されたこと自体は、感激で頬が緩む。相手から「したい」とお願いされるのは、幸せなことだ。
残念がることは、何も。
「いい……?」
「はい」
ないはずなのに、足りない。
おそるおそる、太ももから脇腹へ上がってきたくすぐったさに耐え、滑り込んできた腕におとなしく捕まる。
背中と胸元。どちらでも体温を感じながら、服越しでも分かるほどのふんわりとした肌感に、荒くなりそうな呼吸を鼻の奥で止めた。
「……すき」
切ない声色が、チクチク心臓に刺さっていく。
刺さったところからマグマのような血液が漏れて、血管を通り全身へ行き渡ると。
「あつい、ね」
「……う、ん」
返事をするのも、ままならなくて。
代わりに、ぎゅっと抱き包んだ。昂る激情の行き場が、そこしか無かった。
吐き出せない思いは熱い吐息として漏れ出て、人の服に顔をうずめた灰原さんもまた、じっとり体の芯から熱くする。
——かわいい。
これを愛おしいと呼ばずに、なんと呼ぶのか。
無知な私でも分かるほど、彼女のことを愛している。
抱きしめて、より自覚した。




