第39話「圧倒的、かわいさ」
私は、なんてことを。
「や、やらかし……」
予定外のキスは、想像を遥かに超え官能的で、あらゆる面で大ダメージを受けた。
昨日の夜から今の今まで、二十四時間近く経っているというのに、こびりついた灰原さんの可愛さが頭の中から抜けてくれない。
『は、ふぁ……』
間近で触れた吐息が、忘れられない。
水中から解放され、息継ぎをするみたいな余裕のなさが。
愛おしくて、心臓が壊れる。
胸ぐらを掴んでも掴んでも、悶える苦しみは消えない。どれだけ酸素を深く吸って、二酸化炭素を吐き出したところで、思考がクリアになることはない。
「好き」
試しにせり上がってくる想いを吐き出したら、ようやくいくばくか呼吸が楽になった。
「好きです、瑞月さん……」
本人の前では、なかなか口に出せない。なぜなら、脳のリソースが彼女の全てを感じ取ることにほとんど使われ、一挙手一投足を逃さないよう集中してしまうから。
奥底に宿るのは、片時だって離れたくない愚かさだ。
しかし、これから先の人生を踏まえれば、こんな気持ちは悪手。ひとり時間を楽しめてこそ、相手の人生にも寄り添えるというもの。
あんな勢いだけでする、余裕のない行為。会うたびにしていては、身も心も持たない。
ムラムラ湧き上がる情欲も、処理しておかないと。
「性欲……鬱陶しい」
私はひとりの人間として灰原さんと向き合いたいし、灰原さんという女性を愛したいのに。ことあるごとにキスやら何やらが脳裏を過ぎるのは、本当に勘弁してほしい。
ただ、抑え込みすぎも良くない。人体に備わった避けられない欲なのだから、今のうちにコントロールできるよう訓練しておかなければ。
いざ彼女と体を重ねることになった時、不快感を与えないためにも。
一旦、自分の欲は自分で解消して、灰原さんへの欲は彼女との未来設計図を具体的に描くことで気を紛らわせ、発散させた。
「付き合うにあたって、今後障害物となりうるものは……」
知識が足りない部分はネットで調べるか、友人を頼った。
価値観の違い、金銭感覚、夜の相性、奨学金やローンの有無、その他。たくさん、思考の余地がある。
死ぬまで添い遂げるのなら、介護とかも。女同士だから、婚姻制度は使えないため代替案の模索も必要。子供が欲しくなった時は、どうするか。世間の目は、まだまだ厳しい。
今後ぶつかりそうな課題をノートに書き出して、ひとりで詰められるところは詰める。
価値観のすり合わせなど、灰原さんがいないとどうにもならないことは最初から“悩み”のリストには入れないようにした。悩んでも無駄だから。
「……会いたい」
真剣に未来を思い描けば、描くほど、脳内で再生される華やかな笑顔。
「あんな素敵な人に……選んでもらえるなんて」
光栄と同時に、物怖じもする。
だって、あまりに美しい。外見だけでなく、知る限りでは性格も。
せっかくびっしり書き出したノートの上に頬を預け、あの可憐さはなんなんだろう、と文句をつけたくなる。反則級と表現するのが、一番しっくりくる。
仕事では尊敬できて、憧れの上司。元から人としての好意の土台がしっかりしているからか、ぶっちゃけプライベートは何していたってギャップ萌えで心を掴まれる。
正直、幻滅とかする気がしない。
仮にだらしない生活を送っていても、私が全部やってあげたい。洗濯も料理も、洗い物も。疲れたら、マッサージをして癒やしたい。
「何もしなくていいよ、瑞月さんは」
そう、ベタベタに甘やかして、私なしではいられなくしたい。ごめんなさい、こんな不純な企み。選択肢を奪うのは、一番良くないことなのに。
だけど、きっと彼女のことだから『いいのよ、そこまでしなくても』なんて遠慮しちゃうんだろうな。そういうとこも、好き。大切にしたい。
『キスはしたい』
って、食いついてくる素直さも、狂おしくてたまらない。
「……私も、したい」
体温ごと包んで、包まれて、溶けられるものなら溶けてみたい。最深部で、温もりを感じたい。
欲望まみれだ。
「こんなの、初めて……」
溢れて溢れて、際限なく愛でたくなる。
恋って、すごい。
それだけで生きる活力が湧いて、明日が楽しみになる。息をしているだけで、わくわくする。苦しい時も多々あれど、この幸せの前では些細なことのように感じてしまう。
南未さんのことも、一旦は頭の片隅へ追いやられた。
それよりも、彼女の全てで埋めていたい。
「やっぱり、明日……」
会いましょう、って言えばよかった。
なんで、職場での再会を設定しちゃったんだ。私のアホ。
メッセージ欄は、聞き分けのいい『わかった』で止まったまま。もっと、求めてほしい。
いや、でも。
「どんな顔をして、会えば……」
心の準備は、欲しいや。
次に会うまでには、平静を取り戻していたい。
という、背伸びをした足掻きは、目も当てられないほど空回る。
「おはよう、日暮さん」
「ぁ……」
二日ぶり——何十時間ぶりの、灰原さん。
「最近、本格的に冬ね」
「は……い」
「寒かったから、マフラー買っちゃった」
クリーム色のコートとよく似合う、差し色のチェック柄。落ち着いた雰囲気の中に親しみやすさがあって、彼女を通じて自分の好みを知る。
肌に刺さる寒さの影響か、赤く色づいた鼻の頭も。
かわいすぎる。
どうしよう、抱きしめたい。
「?……あ。ごめんね、こんな雑談」
切り替えの早さも、好き。かっこいい。
のに。
一言も発せず、朝の挨拶は無情にも終了した。




