第38話「大人だから」
あんな、貪るみたいな。
衝動がはちきれて、耐えきれなくなったみたいなキス。
思ってたのと、違う。
「むり……」
放心状態でごろんと寝転んだ、床の上。
「あんなの」
白い天井と、目に刺さる蛍光灯。
「好きすぎる……!きゃ〜!」
つい数分前の出来事を反芻しては、悶え苦しむ。顔を覆う代償として視界が真っ暗になると、さらに明瞭な感触まで浮かんで声にならない悲鳴をあげた。
まさか、日暮さんが。
あの日暮さんから、キスしてくれるなんて。
それも、あんなじっくり。
「うひゃ〜……!むりむりむり」
途中は手を繋ぐだけで限界そうで、いったいどうなっちゃうか今後が心配だったけど。
完全に理性崩壊していたでろう行動に、安心した。我慢してるだけで、日暮さんにも私と同じ感情や情欲が宿ってるんだ、って。
「はぁー……やばい〜。にやける」
本当に初めてか疑うくらい、上手だったかも……というか、あの一瞬で意識が飛びそうなくらい気持ちよかったの、怖い。やみつきになっちゃいそう。
もう会うたびしたい。毎秒してたい。
さっきは完全に放心状態で、咄嗟に引き止められなかったことを悔やむ。今からでも、戻ってきてくれないかな。
それで、朝まで——
「だめだめ。おちつけー……落ち着いて。私」
ここで相手の迷惑も考えず肉欲に溺れる姿なんて見せた日には、憧れの上司からも引きずり落とされて、尊敬できない人になっちゃう。それはだめ。
もう、夜も遅いから諦めよう。一方的に呼び出した挙句、急なお泊まりなんて、酷よね。身勝手すぎる。ご両親も心配するだろうし。
自分を律するため、もう一度軽くシャワーを浴びて、舞い上がって仕方のない気分を整える。
本来は南未と日付が変わるまで飲んだり、泊まりで語り明かすつもりだったけど、予定より随分早い帰宅。せっかくだから、リラックスタイムに充てることにした。心身共に、落ち着けよう。
「……」
スマホは伏せて、本を開いて。
「……」
文字列を、追って。
「……」
密度の濃い、キスを連想した。
「っ〜……むり!すき」
開いた本で、誰にも見られないというのに赤く染まった顔全体を隠す。
「というか」
きもちよかったなー……祥子さんの、唇。
キスもしたことないて言ってたのに、まさかの“ちゅ”じゃなくて“ぱくっ”みたいな感じだったし。えっろ。
何度、記憶を再生しても蘇る一番の感覚は——むにっ、とした弾力と恐ろしいくらいの柔らかさ。あと、柑橘系のいいにおいした。
汗で蒸れた湿度の高さや、虚ろな瞳が真っ直ぐ唇だけを見つめてたのが、たまらなく。
「あ〜……まずい〜」
したく、なっちゃう。
完全に“そういう”スイッチが入ってしまった。
早くも、会いたい。会ってキスしたい。
けど、悲報。明日はお休み。しかも、こういう時に限ってまだ休日に片足も突っ込んでないから、二日連続で。
つまり五十時間以上、日暮さんに会えない。
「……連絡は、いいよね」
まったくの接点ナシは乗り越えられなそうだったから、あまり深くは考えず「今日もありがとう」的なメッセージを送りつけた。
既読は、翌日の昼過ぎになってもつかなかった。
「えー……なんで〜。嫌われた?」
日暮さんは交際まで待って、って明確に線引きしてたのに、踏み込みすぎたから?わがまますぎて、引かれちゃった?
脆い心に、不安は募る。
追いメッセージをしようか悩んでは、メッセージ欄を閉じ、また開いては悩み。繰り返すこと、数十分。
「やだー……顔見たい。会いたい」
どうしようもなく、心細くて。不穏な影も背後まで迫りきていて、焦りから複数回。
『昨日はごめんなさい』
『よければ、会ってお話がしたい』
『会いたいです』
と、しつこいかもって自己嫌悪に陥るような連絡を、連投してしまった。
彼女相手だと、どうしてこうも冷静でいられないんだろう。いつもいつも、軽蔑されちゃうかもって怖くなっちゃう。
たとえ付き合えても、そのうち見捨てられちゃうんじゃないか怯えては、勝手に疲れて、落ち込んで。
過去、付き合った女性の時は、こんなじゃなかった。
けど、今よりも遥かに頼まれたら断れないタイプだったのもあり、それが災いして。
『なんかさー……重い。見返り求めないでよ』
『疲れるんだよね、一緒にいると』
『尽くされすぎても、息が詰まる』
で、浮気された思い出。
「くっ……そうは、なりたくない」
日暮さんとは、大人な恋愛がしたい。子供じみて、尽くしすぎて、負担になるようなことは避けたい。
別れたくない……あ。まだ付き合ってないんだった。
「えー……じゃあ、余計にだめじゃない?」
メッセージ取り消しするか、しないか。迷っているうちに、既読がついた。
そこから、沈黙が数分。
『お疲れ様です。昨日はこちらこそすみませんでした。会いたい気持ちは山々なのですが、今日は少し気持ちの整理をさせてください』
やんわり、「今はまだ会いたくないです」と丁寧な返信が来た。
『そっか、わかった』
しょーがない。気持ちの整理、だいじ。
拗ねたりとかはない。でも、心にぽっかり穴は開く。泣いたりとかもしないけど、枕に顔を埋めて「うぅ」と喉を鳴らした。
会いたい気持ちがあるだけ、まだ。喜ぶべきよね、と言い聞かせる。
そこへ、追い打ちでメッセージが来て。
『また職場で』
職場、ね。
明日も、やっぱり会えないんだ。
別に、平気だけど。全然、よゆう。
「……」
ちょっと、うじうじしちゃうだけ。寝て、起きて、また寝て。次に会う時までは、私も気持ちに整理をつけておく。
大人だから。




