第37話「キスはしたい」
「キスはしたい」
灰原さんの口から耐えきれず飛び出したのは、等身大の願望だった。
「え。や、でも」
付き合ってないからしないって話は、今さっき。
「わかってる」
「じゃあ」
「だけど、したいの」
と、可愛い顔で言われても。
ぷっくら膨らんだと勘違いするほど拗ねていて、幼くこちらを睨んでくる灰原さんに、どうしたらよいものかと頬を掻く。
そういうことは、付き合ってからしたい。相手も、そこの部分は理解してくれている。
なら、今すぐしなくてもいいのでは?と思うけど。
「頭で分かってても、したくなっちゃうの」
人間、理屈じゃない。
当たり前すぎて抜け落ちていたことを、灰原さんのいじらしい必死さが教えてくれた。
「わかりました」
そうでなくとも、好きな人の願い。叶えられるのなら、叶えたい。
「た、ただ」
ひとつ、だけ。
「いきなりするのは、ハードルが高くて……私、キスも初めてで」
恥ずかしさもあって「段階を踏みたい」と交際同様ここでも足踏みをした。
意気地なしな私にも彼女は嫌な顔ひとつせず、それどころか柔和な声色で「もちろん」と答えてくれた。
気を取り直してリビングで向き合った、正座した膝の上。堅苦しく閉じた拳を、そっと包まれる。熱いくらいの体温から、表に出さないだけで相手も緊張しているのが伝わった。
「何からなら……いい?」
なのに、経験者としてリードしてくれようと、動く。
体を前に屈ませて、反応を窺いながら距離を詰めた灰原さんに、眉尻が垂れる。聞かれても、何があるのかすら、知らなくて。
きっと、呆れるほどの無知さも察してくれたんだろう。
「手、とか。繋ぐのは……?」
手の甲。
肌の上を、爪の先が滑り踊る。
少しくすぐられた程度の、浅い刺激なのに。ドクンドクン、深部が脈を打つ。
“いい”の、一言も発せないくらい。
「……触る、ね」
余裕のない私へ、ペタリと触れた。
じっとり汗ばんだ指の腹は、滑らかな動きで隙間を縫って入り込み、手のひらをなぞる。
「く、くす、ぐったい……」
「やだ?」
「や。あ。そういう、わけでは」
「続けてもいい?」
目と鼻の先で、職場では耳にしない甘さの声で、人には見せないであろう着飾っていない可愛らしい素顔で、濡れた瞳で覗かれて。
喉が、開かない。
唾液も、飲み込めない。
「……続けるね」
何も答えなくても、進む。
もっとしてみたいのに息が苦しくて、首元が詰まる。
「嫌だったら……言って?」
嫌なわけ、ない。
散々、「交際後に」や「段階を」と誠実さを示しておいて、内心では触れたくて——触れられたくて、仕方がなかった。
本音は、理性を手放して抱きしめたい。
「恋人繋ぎ……したい」
「こ、こいびと」
「こうやって、するの」
お願いしているフリで、巧妙に私の手を取って捕まえた実行に移した灰原さんは、指を絡めてきゅっと力を込めた。
「祥子さんも、して」
「え……え?」
「力、入れて」
「ちから」
「ぎゅ、って」
されるがままで開きっぱなしだった指を、曲げる。
ふたつの体温が隙間なくひっつくと、言語として存在しないんじゃないか、というほど心地のいい感覚が心を支配した。
密着感が癖になりそうで、こわい。
この時点で既に脳内は未知の行為に対して、パンク寸前。
「次は……抱きついて、いい?」
「そ、そこまでするんですか」
「まだまだ序の口……かも」
追い打ちをかけるように、灰原さんが告げる。
大丈夫、かな。
一番の懸念は、暴走して目の前の愛しい人を傷付けてしまわないか。痛い思いを、怖い思いをさせないかな。
不安で、不安で。
「だけど、祥子さんがむりそうなら……今日はここまでにしましょ?」
あんなにもくっついていたのに、あっさりと離れた体温にも、情緒がぐらりと揺らいで。
「っへ、平気です!まだやれま、す……っ」
思考よりも先に体が動いた結果、正座続きで痺れた足が、ビリリと背筋に電気を流した。
姿勢を保っていられなくなった私はもつれるように倒れ込んで、おそらくは怪我をしないよう自分がクッションになるため抱き止めてくれようとしたんだろう。灰原さんを巻き込んで、床に転がる。
「す、すみませ」
体重をかけないよう自分の体を半ば起こして、不意に。
「へ……へい、き」
多分、咄嗟に顔を隠すため腕で目元を覆った灰原さんの、唇。
赤く艶立っているのが、鮮明に焼き付いた。
それだけじゃない。
お風呂上がりで湿り気を帯びた髪や、緩いサイズの部屋着は肌に張り付くような生地感で、盛り上がった柔らかな膨らみが眼下に広がり、呼吸が止まる。
何よりも、染みた脇。
汗、かいて——息も、荒れてて。興奮、してるんだ。灰原さんも。
単に、煽情的というより。
「かわ、い……」
その瞬間だけは、“好き”の二文字だけで私の全てが構成され、引き寄せられた。
「ん……ん!?」
食べるみたいに、塞ぐ。
予期せぬ感触に腕を上げ、私の姿を確認しようとした灰原さんの目元を、今度は揃えた指で覆い隠して、初めて触れる弾力を唇で挟んだ。
正しいやり方は、知らない。分からない。
“触れたい”だけで、数秒。
本能と呼ぶに相応しい荒々しさを、ぶつけた。
「〜っ、う……ふ。は、ぁ」
表面を撫でるだけの求愛が終わり、ふたりの間に酸素の通り道が出来ると、苦しかったのか灰原さんが大きく息を吸い込んだ。
心なしか冷静さを取り戻した私も、しばらくは肩で息をしていたけど、
「あ……」
やらかしを自覚してからは、もう。
「っす、す」
「へ……?」
「すみませんでした!」
罪悪感が脳天を直撃して、逃げ出すという。
最低な選択肢を取ってしまった。




