第35話「誠に申し訳ありませんでした」
『迎えに、きて』
南未さんのことが気がかりとはいえ、本人が望むなら、と。
着替えもせず家を飛び出して。
「すみませんでした!」
息切れを起こしながら飛び込んだ店内で。
「そんなんじゃ足りない。人の携帯を勝手にいじるなんて、信じらんない」
「土下座しな、南未ちゃん」
「誠に申し訳ありませんでした!」
「へ……?」
開幕早々、視界に飛び込んできたのは、深々と地に手をつけて土下座する——南未さんだった。
バーカウンターの椅子の上、足と腕を組んで座る灰原さんは憤慨した様子で、精一杯の謝罪の後でも不機嫌の影は色濃く残っていた。
突飛な展開に戸惑い、酸素を欲している口さえもあんぐりと開けたままにしていると、こういったことは日常茶飯事なんだろう。ママと呼ばれる女性が、「いらっしゃい、座って〜」と呑気に手招きをした。
「あ。祥子さん……!」
私に気付いた次の瞬間、灰原さんの瞳は輝きに満ちて、さっきまでの怒りはどこへやら。るんるんな足取りで目の前までやってくる。
「ごめんなさい。私の友達が……」
「い、いえ」
しょんぼりしてるのも、かわいいけど。
「ちゃんとシメておいたから。安心して?」
——この人、怒らせたらだめな人だ。
好感度を気にしてか「あっ。暴力的なことはしてないよ」と補足を受けたが、戦慄した背筋が温まることはなかったから、あまり意味はなかった。
ひとまず腕を引かれ、近くの席へ腰を落ち着けたはいいものの。なんだか拍子抜けだ。
もっと、バチバチに火花が散るものかと。
「本当に、すみません。ごめんなさいね。祥子ちゃん」
「え……や。その」
「もちろん今回の会計は、ね。もう全部、私が奢りますんで。へへ」
「そ、そんな。結構です、自分で……」
「まじで、お願い。お財布の中をカラにするくらいじゃないと、あいつに何されるか……」
現実はごまをすったと思ったら、今度は顔の前で手を合わせて懇願してくる南未さんに、終始困惑するばかりで。
——いったい、何を言われたらそんなことに?
ますます、末恐ろしくなって冷や汗を垂らす。
「ちょっと、やだ。人のこと鬼みたいに……」
「鬼じゃん」
「これは出禁ねぇ」
「許してって!ママ、ほんとごめん!」
「謝る相手が違うでしょうに。あんたは」
「瑞月ちゃーん。ごめん。まじ。許して?」
「ちゃん付けやめて」
どうやら灰原さんとママさんはとても仲が良いらしく、彼女の一存でオアシスを失ってしまうのは南未さんにとってかなりの痛手で、逆らえない。……という事情を、やんわり説明された。
仲が良さそうで、なにより。
「と、というか……祥子さん」
「はい」
「来てくれて、うれしい」
疎外感に苛まれかけたところを、純粋無垢な照れた仕草に救われた。
頬を赤らめた灰原さんは横髪を耳にかけ、人の顔色をチラリと窺う。高い椅子に座っている私を立っている彼女が見上げる形で、上目遣いが鼓動を早くさせる。
指先は裾をつまんでいて、あざとさにいよいよ理性ははちきれんばかりだった。
「迎えに来てって言ったのは、瑞月さんですよ」
「……うん」
動揺を悟られたくなくて、冷たい言い方をしてしまったかもしれない。けど、灰原さんに気にしてる様子はない。
正確には、気にする余裕もないほど、緊張しているのが滲み出ていて。
——やっぱり、好き。この人のことが。
“かわいい”が“愛おしい”に変わるまでに、時計の針は動かなかった。
「私が、ここに来た理由」
弱くつまむだけの謙虚な指先を掬い、持ち上げる。
「どういう意味か……分かりますか」
「う、うん」
最終確認は、いらなかったかもしれない。
胸元まで運んだ手を握ると、しっかり握り返してくれる感覚があった。じっとり、互いの汗で蒸れる。
このまま。
連れ去ってしまいたい。
「……家まで送ります」
「……ん」
口から出るのは、弱気な大人対応だ。
家に行けば、どうなるか。明白だというのに、素知らぬ顔で連れ去ろうとしている私は、卑怯なやつかもしれない。
「またね〜」
扉が閉まる前、やたら嬉しそうな南未さんが、余裕綽々と手を振っていた。まるで、こうなることを予期していたかのように。
皮肉にも、背中を押された。気がした。
バタンと世界が隔絶されてからは早く、駅までの徒歩と電車内は、これから起こるであろう未来に頭を白くさせていた。
想像も、できない。
一度も経験がないのだから、当たり前か。
いや、早計だ。まだ、付き合うと決まったわけでもないのに。大切な未来の——ふたりのことなのに、早とちりしちゃだめ。私。
よく、考えなきゃ。勢いだけではなく。
「——水、飲みますか」
私と同じく無言を貫き通していた灰原さんへ声を掛けたのは、彼女の部屋の玄関に入ってからのことだった。
声は出さずに頷くから、「お借りします」と一言伝えてコップを手に取る。冷蔵庫を開けていいものか、そこは僅かばかり躊躇った。
いや、ちゃんと確認は取ろう。
「あの、灰原さ」
振り向こうとした体は、呼吸ごとピタリと止まる。
背中に当たった額と、お腹に巻き付いた腕。手は、布を強く握りしめていた。
私の心臓を射止めたのは、脈絡のないハグだけじゃない。
「すき」
か細く、芯のない声が鼓膜を叩いたから。
平静を保とうとしていた理性は崩壊の一途を辿り、剥き出しの本能が顔を出す。同時に、体にも如実に変化が現れた。
急上昇した体温によって毛穴という毛穴から噴き出した汗に反して、流れた分の反動か異常に喉が渇く。
湧き上がる激情を飲み込もうとしても、無理で。
「私、も」
振り向いて抱きしめる——なんて芸当は残念ながらできず、お腹にある手をぎゅっと握り返すだけで、限界で。
「私も、好きです」
この日、私達は“両思いであることを認識”した。
道のりは遠く、足取りはひどく重いが、長い長い旅路の中の大きな一歩であったことに、間違いはない。




