第31話「他の、誰かと?」
目眩、吐き気、動機、倦怠感。
全身に流れきった飲酒の影響は、もはや毒。
泥酔ゾンビと成り果てた私の足が千鳥足にならないのは、ただひとつ。
「——着きましたよ、瑞月さん」
「ぅ、んー……」
灰原さんを、安全に送り届ける。
それだけを目標として、それだけのために、どれだけしんどくても歯を食いしばり、人ひとり分の体を支え持って電車を乗り継いだ。
息切れを起こしたのは火照った体をベッドに寝かせ、膝から崩れ落ちた後で、しばらくシーツに額をつけて浅い呼吸を繰り返した。
「し、しぬ……」
約束した以上、無責任なことはできない。と、気合だけで乗り切ったものの、まさかここまで酔うとは。
調子に乗って、飲みすぎた。
お酒を飲んでほんわか楽しそうな灰原さんを見てたら、自分も飲みたくなって、飲めば飲むほど喜んでくれたから可愛くて、嬉しくて。
結果、吐きそう。
胃の辺りが、ぐるぐるする。頭も、ぐらぐらする。汗も、だらだら止まらない。
「水……」
倒れてしまう前に、水分補給。勝手ながらコップをお借りして、水道水でもなんでもいいからと一杯分を無理矢理に流し込んだ。足りなくて継ぎ足すも、ひとくちでやめる。
キッチンで項垂れていたら、少し楽になってきた。
——鍵とか、どうしようかな。
泊まるわけにもいかないから、お借りしないといけないんだけど。
当の本人は、ベッドで就寝中。せっかく気持ちよさそうに眠っているのに、声をかけて起こすのも忍びない。
「……瑞月さん」
とはいえ、このまま朝帰りで親を心配させるわけにもいかず、心を鬼にして体を揺らした。
「帰るので、鍵をお借りしてもいいですか?」
「んぅー……か、ばん」
「鞄?」
「中に、あるから……」
眉間に深くシワを寄せ、煩わしさを露わにされる。ごめんなさい、寝たいですよね。
不機嫌なところなんて滅多に見ないから、これはこれで愛らしいなと感じつつも、教えてもらった通り鞄の中を軽く漁った。
キーケースから、家の鍵であろう形状のものを取り出す。
「閉めた後は、どうすればいいですか?」
「ん……いつもの、とこ」
「いつも……?」
「あそこ、入れといて……いいから」
誰かと、間違えてる……?
あそこ——指をさしている方向には、キッチンと廊下へ続く扉。その向こうには玄関があることから、おそらくは郵便受けにでも入れとけという意味合いだろう。
寝ぼけているのに答える様子からも、日頃よく泊まりに来る相手がいる、というのは間違いない。
——恋人?
いや、いつだかのランチで「今は独り身」と言っていたから、それはない。
「……そういえば」
さっき——居酒屋を出る時。
灰原さんは、下着を気にしていた。実際目で見てまで、確かめたくなるほど。
あれは一般的に性行為への準備や期待を指すものと認識していて、だから私との行為を想定してくれたのかと思い込んでたけど。
もしかして、違う?
「かぎ、しめてね……」
酔っていても寝ていても、危機感からか灰原さんはもう一度口を開いて、
「みなみ」
私じゃない、名前を吐いた。
——みな、み。
『南未だよ。よろしくね』
気さくに差し出された手のひらと、不敵な印象の瞳、釣り上がる唇の端。
灰原さんのお腹に手を回す、親しげな仕草。
知っている人物の顔が脳裏を過ぎった瞬間、ぐわりと全身の毛が逆立つような怒りに蝕まれて、そのすぐ後で血液は熱を失い末端から冷えきっていく。
「——……」
まさか。
ふたりは、体の関係なんじゃないか。
友達は友達でも、大人な意味も含む方の友達なんじゃないか。
突飛で、なおかつ嫌な憶測が頭を埋めると、血の気が引く感覚が指先を震わせた。
そんなはずない、灰原さんはそんな人じゃないと否定するも、体に出てしまった感情の反応には勝てなかった。
逃げるように部屋を飛び出して、荒々しく鍵を閉めて、郵便受けに投げ入れる。
「っ……」
そして、心臓の痛みに耐え兼ねて膝をついた。
無機質な扉にゴツンと頭をぶつけ、放置していたら、じわじわ体温が奪われていく。
チカチカ、スマホが光る。親か、兄からの通知だ。帰りが遅くなると、伝え忘れていたから。
「……もしもし」
画面も見ずに電話を取れば、案の定「お前さー、どこいんの」と兄の声が届く。抑揚は少ないが、身を案じてくれているのは分かった。
「こんな時間まで連絡つかないの、心臓に悪いわ」
「ごめん、飲みすぎちゃって」
「いいけどさー。親父、心配でそわそわしてるよ」
「今、帰るとこ」
「迎え行こっか。俺、まだ飲んでないから」
「……お願い」
住所を伝えて、通話を切って。
ようやく、体の向きを変えて、廊下に座り込んだまま空を見上げた。
「みなみ……」
あまりの強敵に、戦う前からお手上げ状態。
月の美しさが、嫌に視界を照らした。




