第28話「ミス、ミス、ミス」
第二十八話「ミス、ミス、ミス」
あれ、は。
『他の人に、見られたら——』
眉間に寄るシワは怒りよりも焦りを示していて、泣きそうにも映った瞳の潤いが、私の身を案じていた。
あの顔は、反則。
まるで独占欲が爆発した結果の行動にも思えて、都合よすぎるかもしれないけど、私にもついに好機が。恋の天使が、舞い降りてきたかも。
そ、それに、露出の高さに気付いてたんだ。
じゃあ、今までの行動もずっと、体調を気遣っただけじゃなくて、谷間とか隠そうとしてくれてたのかな。なにそれ、優しい。すき。
ならアピールも全部、無駄に終わってなくて。
ちゃんと。
女として、見てくれてた……?
「灰原さん……ここの部分なんですが」
「う、うん」
意識しちゃったら、もうだめで。
資料を確認するため覗きこんだら、すぐ近くに日暮さんの真剣な眼差しがあって、自分に向いてなくてもキュンとしちゃって。
——すき。
見惚れて、何も考えられなくなって。
「ん……?どうか、しましたか」
「う、ううん」
取り繕おうとしても、無駄で。
——こんな素敵な人が、もしかして私を?
そんなの……そんなのって、もう!
タイピングするのも緊張するほど、日暮さんの存在が脳を侵食していた。
どうなるかは、一目瞭然。
「灰原〜、ここ間違えてる」
「灰原さん、これってほんとに合ってます?」
「誰ですかー。この資料ここに置いたの」
「す、すみません!私です」
ミスを連発する私に、岩村さんは「珍しくないですか?」と目を丸くして、周囲の人も「体調でも悪いのか」と心配してくれる。
恋煩いが原因だなんて口が避けても言えないから、ひたすら謝っては挽回するため動いてたんだけど、
「タイプミスひどすぎ。なにやってんの?仕事ナメてんの?辞めれば?」
午前も終わり。お局の先輩にきつく叱られて、心が折れた。悪いのは誰か明白だから、余計に。
沈んでるところなんて見せられない。そう気張っていられたのも最初のうちだけで、見事撃沈。デスクに肘を乗せ、手のひらに額をつけた。
「……もう、休憩ですね」
「……ええ。そうね」
ため息まじりに返せば、日暮さんは眉を垂らす。ごめんなさい、困らせて。
八つ当たりしたいわけでも、ないのに。
「お疲れ様でーす。灰原さん」
「……おつかれさま、岩村さん」
「今日、なんか調子悪くないですか?よかったら、うまいもん奢りますよ」
「ありがとう。気持ちだけで充分よ」
隙あらばふたりきりの時間を狙ってくる相手に、言葉を選んでいなすのも疲れた。もう、口説きに来ないでほしい。付き合う確率は、どう頑張ってもゼロなんだから。
——それは、私もか。
人のこと言えない。他人に投げた言の葉が、ブーメランになって胸を突き刺す。
「じゃあ、日暮さん。僕と一緒にお昼どうですか」
「いや、私は……」
「いいのよ。構わず、ふたりで行ってちょうだい」
「だけど」
「ひとりになりたいの。ごめんね」
これ以上の醜態を晒したくはなくて、一度遠ざけた。日暮さんも私の気持ちを汲んでか、「分かりました」とオフィスを後にする。
——こんなんじゃ、だめ。
職場で迷惑をかけるのは、違う。
それにまだ彼女と付き合う未来が見えただけで、確定したわけでもないのに。浮かれすぎよ。
頬を叩いて、その刺激を元に背筋を伸ばした。今日のランチはお気に入りのお店に行って、とびきりおいしいものをたらふく食べて、まずは自分の機嫌を取ろう。
それで、午後の仕事をこなして、帰ってからは南未に電話——
「あ。」
そういえば、毎日夜の八時に電話する話、どうなったんだっけ?
私用のスマホに、日暮さんからの連絡はなし。昨日の夜こちらから『おやすみ』と送ったメッセージで、止まっている。
——さびしい。
自分ばかり、好きみたい。
いや、そうなんだけど。彼女からの好意はまだ恋愛かどうかも分かってないから、当たり前なんだけど。
「……はぁ。やめやめ」
考えすぎると病んじゃうから、別のことで頭を満たそう。
おかげで休憩終わりからは普段の調子に戻ってきて、やらかした分の対処はできた。対応してくれた人への謝罪とお礼にも回ったし、ひと安心。
「お疲れ様でーす」
「お疲れさま」
「どうです、灰原さん。この後、一杯。ふたりで」
「どうして?」
「や、ミスして凹んでるかな、って……僕、励ましたくて」
本当に、この人は。
良い子だけど、ここまでくるとだるい。かと言って告白されたわけではないし、先回りして断るのは角が立つ。
はぁ……面倒。ただでさえ、今日はしんどいのに。
「すみません、岩村さん」
頭痛がしてきてこめかみの辺りを押さえると、察してくれたのか、はたまた気まぐれか。日暮さんが申し訳なさそうな声で、私たちの間に入った。
「灰原さんは今日、先約がありまして」
「そうなんですか?」
「はい。また今度、計画を立ててみんなで飲みませんか」
「おっ!いいですね。分かりました!」
今日のところは諦めます、と引き際だけはちゃんとしてる岩村さんが去っていった後で、
「……大丈夫ですか」
多分、色んな思いを込めて声をかけてくれた。
——本当に、この人は。
困った時にはいつも駆けつけてくれるから、何度だって好きになっちゃう。そうでなくとも大好きなのに。
「帰りましょう」
「……うん」
残業なくて、よかった。
こうして並んで歩けるなんて、最高。
嫌なこともあったけど、終わりよければ全てよしよね。
「灰原さん」
一転して軽やかにるんるんで歩いていたら、駅が近づくにつれ日暮さんの足取りが重くなって、ついには止まる。
呼びかけられて振り向けば、すぐ間近に体温が迫って。
「今って……まだ、勤務の範囲ですか」
「え?もう退勤したから、違う……かな」
「そっか」
なんで、そんな質問……?
気の抜けた吐息を漏らした日暮さんの手が、持ち上がる。
そして、呑気に小首を傾げていた私の頭へ、ぽんと置かれた。
「今日も一日、お疲れさまです」
一日分の、負の感情が。
「頑張りましたね」
収縮する心臓の痛みによって、かき消された。疲れが吹き飛ぶほどの威力で。
「帰ったら、また電話します」
「は……はい」
でも、こんなこと、されちゃったら。
もう、声だけじゃ足りないかも。




