第19話「お揃いのくま」
やらかした。
「……何をしてるの、私は」
男性社員との飲みが心配で気を引きたいばかりに、子供みたいなことを。……いや、まだ子供の方が聞き分けが良く、かわいいから許せるものの。
恋を自覚してからというもの、感情のコントロールがうまくいかない。こんなにも振り回されるのなら、いっそのこと手放してしまいたいくらいなのに。
「おはよう、日暮さん」
「……おはようございます」
週明け、出勤してきた灰原さんの姿を目にしたら、他のことはどうでもよくなってしまった。
そろそろ本格的に冷えてきたからだろう、着てきたコートを脱ぐ際に表れたぴっちりとしたニット地の服は、体型を隠すことなくむしろ強調している。
興奮する、というよりは「他人もいる前なのに」と他者の記憶に残ることを危惧した。
しかし、オフィス内は人工的な暖かい風で満たされている。以前のように「寒いでしょう」なんて言い訳は、完封された状態。
「……灰原さん」
策を練るより先に、声が彼女の元へ向かっていた。
「ん……なに?」
「この間は、申し訳ありませんでした」
せっかくだ、謝罪しておこう。頭を下げると、「いいのよ」と変わらない穏やかさが耳に届いて、
「私の方こそ、ごめんなさい。褒めるのが遅れて」
顔を上げる前に、頭頂部にふわりとした感触が当てられた。
「ミスなくできて、えらいね」
黒目を動かすと視界に映ったのは、自分に伸びてきた華奢な腕と、どこか照れたような微笑み。細まった瞼の奥には、濁りのない色をした瞳があった。
——優しい。
これが“好き”なら、確かに恋とは幸せなものかもしれない。少し、むず痒いけど……それも悪くはない。
「ま、まぁ、社用携帯を使うのは良くないから、その。次からは、えっと」
「はい。次はしないよう、気を付けます」
「あ……うん。そう、ね」
こんなにも心の広い上司に、二回も注意させてしまうなんて。同じ過ちを犯さないよう、戒めていかないと。
心の中で「二度としないぞ」と固く誓って、業務開始。灰原さんは何かあったのか、不服そうな様子で背もたれを軋ませていた。
「……あ。」
だけど、何かを思い出したように立ち上がって、足元に置いていた鞄を漁り始めた。
なんだろう……?
興味をそそられて横目で観察していたら、出てきたのは小さなくまのキーホルダー。黒いジャケットのスーツを着ていた。
「見て。かわいいでしょう、これ」
「はい」
灰原さんの家にあった、くまに似ている。
「日暮さんに似てるから、買っちゃった」
「え……」
「もうひとつあるの。よかったら」
——お揃い。
ニコニコ笑顔に意識を持っていかれて心あらずで受け取ったものの、いいんだろうか。
それに、私に似てるから……なんだか、理由が思わせぶりな気がする。考えすぎだと分かっていても、脳が都合よく処理しようと動いた。
好かれているに越したことはないが、勝手に期待して傷付くのは避けたい。相手を恨みたくもない。ここは、一線を引いて「あくまでも部下として気に入られている」——そう捉えておこう。
感情に振り回される感覚は、苦手だから。
「……日暮さん」
手のひらに収まったくまを見下ろしていたら、覆うように揃った指先が重なった。
「喜んで、くれた……?」
不安げに揺れる、眼差し。
僅かな上目遣いが持つ愛嬌と、大人びた雰囲気のギャップに心臓は太鼓へと変貌を遂げ、全身に振動が走る。
「もち、ろん。……大切にします」
無意識の内に握られたキーホルダーは、胸元で熱を灯した。
——私。
この人を、独り占めしたい。
他の人に、同じことをしてほしくない。
「灰……」
「灰原さん」
独占欲が体の末端まで行き届いて、唇が持ち上がると同時に、男性の声が届いた。
呼ばれたことに反応して振り向いた灰原さんは、「岩村さん。どうしたの?」と声の主へ笑いかける。私への対応と、相違ない丁寧さで。
——自惚れるところだった。
自分が、彼女にとって“特別”なんじゃないか、って。
「出張、また行きたいです」
「ふふ。焦らなくても、そのうち任されるようになるよ」
「いやー……そうじゃなくて。僕は、灰原さんと行きたいんですけど」
「えー?やだー。私は嫌よ、いつまでもひとり立ちしてくれないなんて。困る」
「そうですけどー……ひどくないですか?どう思います、日暮さん」
気さくなノリで話しかけられ、なんとか微笑を浮かべた。
「はは」
おかしいな。
言葉が、出てこない。
いつもならもっと、気の利いた返しができるのに。脳の一部が欠損してるみたいに、思考が回らない。
しんどい。
感情に支配され、身動きが取れなくなっていくのが。
私の性質とは相反して、首をきつく締め上げられるばかりで。




