第15話「プライベートを暴きたい」
季節は、秋。
夏の暑さも抜け、肌寒くなってきた時期。
の、はず。
「ん……ん?」
はずなのに、なんか。
「汗、止まんな……」
ボタボタ。
色を変えたコンクリートの地面が、円を描く。水滴はぶつかった瞬間に吸い込まれ、蒸発してはまた、私の体から落ちて汚れた。
廊下に出て、数秒後の出来事だった。
滝のように全身の毛穴から、汗が噴き出したのは。
「お……おち、ついて。私」
心臓が、バクンバクン跳ね出したのは。
「風邪、移ったかな」
あの短時間で。
あの、ベッドで——
『日暮さん……』
切羽詰まったみたいな、上擦った声。
言い淀み、開いては閉じた唇の弾み。
のしかかった柔らかな重みと、はちきれんばかりに詰まった胸元の弾力。
濡れた髪、潤んだ瞳、汗の伝う輪郭、僅かに漂う甘い香り。
どこを取っても、五感全てを支配してくる強烈なインパクトに、思考は一時的に遮断。許容範囲を超えるとは、まさにこのことだろう。
「あれ、は……」
破壊力が、凄まじくて。余裕も言葉も失うほどで。
ギリギリ残っていた理性が平静を手放さずいてくれたおかげで、なんとか部下失格な対応は避けられたものの。
「死ぬ、かと」
未だ鼓膜を内側から容赦なく叩く心臓を無理矢理にでも落ち着けたくて、胸ぐらを掴んだ。
抑えても抑えても、むしろ反発するように鼓動は早くなる。
しばらく蹲って、完全に異常をきたしている自分の体が正常に戻るまで、じっと耐えた。例えるなら、やけ酒した翌日の二日酔いに近いしんどさ。なったことないけど。
さすがに疎い私でも、ここまで来るとひとつの憶測が立つ。
——これは、まさか。
「恋……なのでは」
と、確信めいた発想に陥ったが、いつだか友達が「恋はドキドキして楽しいもの」や「幸せ絶好調なハッピーライフ」と称していたことを思い出し、即座に否定した。
こんなにも苦しいんだから、きっと違う。
それに、恋に落ちたところで——
「明日は念のため、お休みしよう……」
だめ。このままじゃ。
血迷っている心も体も、整えないと。
じゃない、と。
『——日暮、さん……犯して』
「っ……わ、ぁあ。違う、ちがう!灰原さんは、そんなこと言わない」
脳の大半を蝕んでくる非現実的な映像を、跡形もなく消し去るために。
灰原さんとまた、変わらない日常を送るために。
上司と部下の関係を崩さず、適切な距離感でいるために。
「……よし」
決めてから、次に彼女と会うまでは特に問題はなく、一日とはいえ離れてしまえば目の前の出来事に集中できた。
だから、大丈夫。
大丈夫だろうと、自分の性格を過信していた。
「——おはよう、日暮さん」
「おはようございます」
翌々日の朝、すっかり熱も下がったという灰原さんと挨拶を交わし、改めて感謝と謝罪も受け、朝礼も難なくクリア。
困り事が起きたのは、その後。
「大丈夫だったのか〜?灰原」
「はい。ご心配をおかけしました」
隣の席で、上司とそのまた上司が雑談に耽っていた時だ。
私は任された資料作成をしつつも、なんとなく気になって耳を傾けてしまって。聞こえてくるのは、親しげな笑い声と、どこか余所行きな灰原さんの声で。
「灰原は、昔から体弱かったもんなぁ」
「その説は、お世話になりました……」
「はは!なんだか、昔に戻ったみたいで懐かしいよ」
「ひどい。人が倒れたのに」
「悪い悪い」
——昔、から。
私が知らない灰原さんを、上司は知った顔で懐かしむ。当たり前だ、彼女は自分より何年も前に入社していて、ふたりは長らく関わりがあるんだから。
当然のことだと、頭は理解しているのに、心がぼやいた。過去の記憶も、灰原さんの情報量も、何もかも自分には足りない。
彼女について、何も知らない。
「今じゃあ、部下もできて……昇進もして」
成長したな、と。
笑いかけられて、照れ笑う彼女について、何も。
「——……」
胸に宿った感情を、一言で表すなら。
悔しい。
あるいは、“歯痒い”だ。
知的好奇心でも、くすぐられたか。単に、負けず嫌いな悪い癖が発動したか。
原因は検討もつかないが、不貞腐れたくなった子供じみた気持ちは、紛うことなく本心から来るものだった。
知りたい。
少しでいい。
「灰原さん」
私にも、教えてほしい。
「?……どうしたの。日暮さん」
あなたの——
「今日、ランチ行きませんか」
プライベートを、暴かせてください。
行き過ぎた願いだと自覚してなお抑えられなかった思いは、
「もちろん!」
灰原さんを、屈託のない満面の笑みで染めることができた。




