第14話「やっちゃった」
抱きしめられた。
と、勘違いするほどの距離で、耳にかかる吐息の熱さは私の体温を上回って。
「は……ぁ。灰原、さん」
“頼ってほしい”と懇願してくれた日暮さんは、
「み、水を……水を、ください」
絶賛体調不良の私が青ざめるほど、疲弊していた。
「っま、待ってて」
浮かれてる暇もなくキッチンへ急いで、作り置きのお茶を汲んで運ぶ。手渡したら、相当喉が乾いてたのか間髪入れず一気飲みしていた。
冷静沈着な彼女が、珍しい。
嬉しいけど、無理させちゃったかな?彼女は明日も仕事なのに。できるだけ、早く帰してあげた方がいいかも。
否。
「すみません、お見苦しいところを」
「い、いいのよ。むしろ、ごめんなさい。そこまでさせて……」
「いえ。……上がっていっても、いいですか?」
これは、チャンス……!
相手からの申し出だもの、断る理由もなければ——いや、断るなんてもったいない!
「もちろん。あがって?」
出会いは職場。関係性は上司と部下。
けど、ここは完全なるプライベートの場。仕事関連の話題で訪れたわけじゃない以上、公私でいうなら“私”も“私”。
普段は抑制していてできないアピールも、できちゃうかも。
邪な感情MAXで招き入れると、まず先に日暮さんは買ってきた差し入れを渡してくれた。袋の中には、栄養が摂れそうでなおかつ簡単に食べられそうなものが詰まっていた。
私のためだけに——これを?こんなにたくさん。
優しさに、早くもノックアウトしそうになる。キュンキュンする。
「ありがとう……気が利くのね」
「灰原さんの下で働いていますから」
「お世辞も上手ね」
「お世辞?」
何気ない一言に、一瞬だけ空気が変わった。
「私が、あなたに対してそんなことをするとお思いですか?」
不快感というよりは、“心外だ”と傷付いたような態度が心に刺さって、「ごめんなさい」と小さく詫びた。
——ってことは、つまり。
めっちゃ褒められた。
「ふ……へへ」
照れて、口元をモゴモゴさせた私に、日暮さんの口角も力を抜いたように笑みを作る。
たまに彼女が見せる、慈愛に満ちた表情は、ある意味で心臓に悪い。その顔で見つめられると、心肺停止しちゃうかも。
「灰原さんは、寝ていてくださ——あ。」
「ん?」
「本当に、使ってくれているんですね……」
「え。なに……」
彼女が指さした、先。
「くまさん」
ジャケット姿のひぐれちゃんが堂々と鎮座していて、足元からブワッと羞恥が襲った。知られているとはいえ、実際に見られるのは恥ずかしくて。
南未を追い出すことに必死で、毛布で隠すの、忘れてた。
「っや!あれは、その」
「はは。かわいー……はじめまして」
焦る私とは違い、余裕綽々で手を繋いだ日暮さんを後ろから眺めていて、ついに。
もう。
「——すき」
溢れてしまった。
引かないで受け入れてくれたこともそうだけど、何より私の大切にしているものを、大切そうに扱ってくれた誠実さに胸を打たれて。
「え……?」
気が付けば、彼女の上。
抱きつくように馬乗りになって、まとめられているのに乱れた黒髪を縫うように、踏まないように手をついた。
マットレスの一部がふたつ分の重みに負け、シーツはしわくちゃな影を生み出す。
「はい、ばら……さん?」
すき。
「日暮さん」
大好き。
もう、会社での立場なんて捨て去って、今の地位を失ってでも結ばれたいくらいに。
大好きなのに。
「う、わ……すごい汗ですね。大丈夫ですか?」
必死な私の内面なんて知りもしない、愛らしくも憎たらしい相手は、汗ひとつない涼しい顔で人の汗を拭ってくれる。
高い温度と低い温度が混じり合って、皮膚の上で出来上がったぬるま湯に、浸る。
「足、もつれちゃいました?」
ふらついただけかと、わざと押し倒しただなんて微塵も頭にない人を恋愛へ引き込む方法を、残念ながら私は持ち合わせていない。
口説き慣れていて、自信に満ちた南未だったら、違ったのかな。
「……ごめんなさい」
親友に背中を押してもらったばかりだというのに、情けない。
「転んじゃった」
誤魔化して起き上がり、振り向きざまに湿った髪を耳へかける。背中を見せると、日暮さんは何でもない顔でベッドを降りていた。
「食べるのだけ見届けて、私は帰ります」
「……ええ」
自分がいたら休めないだろうという大人な対応は、今の私にはちょっと物足りなかった。寂しいともいう。
帰らないで、と甘えられるほどの勇気は、なくて。
「また、ね」
「はい。また」
約束通り、買ってきてくれたインスタントおかゆのひとつを食べたら、日暮さんはすんなり家を出てしまった。
「私のバカ〜……」
大胆なのか、臆病なのか。どっちかにしてよ。
変なやつって、警戒されちゃったかも。
「はぁ……休み明け、どんな顔して会えばいいの」
やらかした。さいあく。




