第13話「頼ってほしい」
去り際まで、つらいだろうに上司としての顔は崩さないでいてくれた灰原さんに、何かお返しができないかと。
出過ぎた真似と承知の上、連絡をしたら、
『ありがとう。全然、迷惑じゃないよ』
と言ってもらえたので、コンビニで差し入れを購入してから、送られてきた住所までは電車と徒歩で向かった。
——灰原さんの部屋は、五階。
マンションのエレベーターに乗り込み、該当の数字を押す。私を乗せた箱が持ち上がると、僅かに心臓が浮く感覚に襲われた。
重力だけのせいじゃない。
私にしては珍しく、かなりソワソワしていた。手汗で、袋の持ち手が湿る。
「失礼だけは、ないように……」
ただでさえ、具合が悪いところへお邪魔するんだ。気の利く灰原さんだからこそ、気を遣わせないようこちらから精一杯の配慮をしないと。負担をかけてしまう。
——どうして、ここまでしたくなるのか。
たかだか、職場の人間相手に。
自分でも、答えを知らない。無理に暴くことでもなければ、知る必要もないだろうと、目を伏せている。
「——えぇ?帰れ、って。来たばっかなのにひどいなぁ」
「ほんと、ごめん。ごめんなさい」
多分、頭の片隅では分かっているからだ。
「別にいいけどさ。体調は?つらいんじゃないの」
「え、えーと。それはー……南未のおかげで、元気出た。から……」
「なのに帰すんだ?」
エレベーターを降りた先。
廊下の向こうで飛び交う、女ふたりの声。
「無理してない?……瑞月」
汗ばんだ髪に、絡む指。
赤らんだ耳に、かかる髪。
見たくなかった光景が、残しておきたくないのに海馬へ吸われ、居座る。
——あの人は。
バーで、一緒に飲んでた。
「無理してないから。帰って〜、お願い」
「なんでよ。どうしたの、なんかあった?」
「な、何もないから!」
「話してよ、瑞月」
私達の仲でしょ?と。
相も変わらず仲睦まじい呼び方で、いつでも互いに触れられる近さで行われるやり取りの数々に、閉まるボタンが凹んだ。
扉は外界を遮断し、私だけが狭い空間に取り残される。袋を持つ手には、喪失感が握られていた。
「……痛い」
まただ。
胸の辺りが、ズキズキする。
エレベーターは、下がる。沈みゆく心拍と連動するように、一階まで急降下した。
どうして、こうなるのか。
知りたくない。知れば、どうなるか。
不都合すぎて、逃げてしまいたい。
『——何時に着く?』
このまま走って帰りたかった。けど、待ってくれているんだろうメッセージによって、引き止められる。
「はぁ……私は、なんて失礼なことを」
自分から言い出した手前、やっぱり帰るなんて言えない。
なにより、灰原さんを悲しませられない。
降りてしまったエレベーターはすでに上がってしまって、また降りてくる時間を待つのも惜しくて、階段を駆けた。
一階、二階、三階と。
順調に登っていたのも、次第に体力が尽きて遅くなる。足も重く、動きも鈍くなっていく。
「っ……久々、こんなに走った、かも」
辿り着いた頃にはもう汗だく。肩で息をするほど限界を迎えていたから、呼吸を整えてからインターホンを鳴らした。さっきまでいた女性は、入れ違いで帰ったようだ。
数分も経たず扉が開いて、
「あ……日暮さん」
少し、鼻にかかった声が鼓膜を触った。風邪の気配に、良心が痛む。
「大丈夫ですか?具合は……?」
「へいき」
そんなことより、と言葉が続いて。
「来てくれて、嬉しい」
オフィスでは触れたこともない、あどけない表情に惹かれるように、室内へ侵入した。「お邪魔します」の一言さえも、脳内からは消え失せて。
日頃の運動不足と、無理が祟ったのも相まって、つい。
「ひ、ぐれさん……?」
「すみません」
相手の肩に、真っ向から寄りかかってしまった。
濡れた額を乗せ、手は腕を掴んで。とても、部下らしからぬことを。
「少し、だけ。いいですか」
「う、うん。平気、だけど……」
頬に垂れた汗を拭ってくれた、熱を持ったはずの指先さえ、私の今の温度には敵わなかったらしい。僅かに、冷えた感触が当たった。
「もしかして……走ってきて、くれたの?」
「……はい」
「私のことを、心配して?」
いえ。
——いや。
ある意味、心配ではあったか。
「はい」
体調はもちろん。私が仮に帰っていたとして、あの女性とあのままふたりきりで過ごしていたら、何が起きていたのか。
放っておけない。
見てみぬフリも、できない。
——耐えられない。
「今度からは、私を頼ってくれませんか」
誰よりも、先に。
「あなたの力になりたいんです」
部下として、人として。
真っ先に連絡してもらえるような、そんな女に。
なりたいと願うのは、もしかして。




