第12話「熱出ちゃった」
私の好きな人は、いずれ男性と結婚してしまう。
実際に目の前で起こらなかったとしても、その可能性を秘めているという事実だけで、泣き虫な私は枕を濡らした。
『独身でいるうちは』
あの発言が、何を指すか。愚かな私でも、分かっている。
彼女が結婚するまでという意味でも、私が相手を見つけるまでという意味でも、どちらにしても日暮さん自身が私の隣へ立つ候補に上がることはないという意味だ。
いいよ、それで。いいもんね。
そばにいられるだけで、幸せだもの。
「おはようございます、灰原さん」
「……おはよう。日暮さん」
「今日は、暖かそうな格好ですね」
「うん。そろそろ寒くなってきたから」
「……よかった」
どれだけやっても無意味と悟った露出をやめた途端、日暮さんは胸を撫で下ろしていた。もしかしたら、迷惑と思ってたのかも。
ほんと、意識されてないんだ。
落ち込んじゃうけど、それはそう。だって、相手はただの部下で、さらにはノンケだものね。いちいち沈んでいられない。
「灰原さんが風邪を引かないか……心配だったんです。ずっと」
「え……?」
無理やり奮起しようとしていたところ、
「だから、よかったです」
隣から聞こえた優しい声色と内容に引っ張られ、首が動く。
横を見れば、安心しきった微笑の日暮さんが私を見てさらに口角を上げて、瞼を下ろした。
——好き。
高鳴る、と表現するにはあまりに盛り上がりすぎて、心臓は感動の鐘を鳴らす。茹だる血液の濃さは、肌の血色さえも変えた。
「日暮、さん」
すき。
私、あなたが大好き。
「あ。朝礼の時間ですね」
あなたが、私を好きじゃなくても。
「……そうね」
冷静さを失っては、取り戻して。浮かれては、沈んで。
恋って……こんなに楽しいものだったかな?
落ちる時ですら幸せなんだもの、困っちゃう。舞い上がりすぎたら、いったいどうなっちゃうんだろう……?
心臓に、負担がかかりすぎたかな。
なん、だか。
「灰原さん……?」
汗、かいてきた。
「どうしたんですか、顔が赤……」
頭も、くらくらする。
呼吸も、浅く——
「灰原さん!」
多分。
初めて、日暮さんの方から抱きかかえるようにして触ってくれた瞬間なんだけど、こんな時ばかり気を失う私が知る由もなかった。
————————————————————
「お騒がせしました……」
「いえいえ」
倒れた理由は、高熱。知らず知らずのうちに、風邪を引いていたらしい。
日暮さんが体調を気遣ってくれたすぐ後に、こんな失態。穴があったら入りたい……。
一時間ほどで、医務室のベッドで目を覚ました私はその足でオフィスに戻り、全員に詫びてから帰り支度を始めた。上司が「療養休暇使いな」と言ってくれたから、ありがたく帰らせてもらうことに。
「何かあれば、社用携帯に……」
「はい。分かりました」
一応、部下である数人には、予め伝えてある連絡先でやり取りをするよう告知しておいて、
「日暮さんも」
「はい」
「あ。やっぱり……」
ちゃっかり、日暮さんだけはプライベートの携帯で連絡しちゃおうかな?これを機に連絡先ゲットしちゃう?なんて企んだけど、さすがに公私混同すぎるからやめた。
仮にも、上司。立場が上であることを利用して、部下が断りにくい状況を生み出してしまうのは避けたい。
そんなこんなで、泣く泣く断念。
「灰原さん」
「?……どうしたの、日暮さん」
「いや。……お大事に」
帰り際、心配で心配で仕方なさそうな日暮さんと会話できただけ、今日の収穫は上々と前向きに捉えることにした。
家に着いてからは堅苦しい服装からラフな部屋着に替えて、お化粧を落として。
「ただいま、ひぐれちゃん」
お気に入りのくま——日暮さんのジャケット付き——に抱きついて、一息つく。
「今日も、だめだったの」
全然、付き合える未来は見えない。
彼女の香りを肺いっぱいに吸い込んで、そろそろ自分の香りで上書きされて薄れてきたことに、物悲しさを覚えた。
これが、本当の日暮さんだったらなぁ。
『瑞月……』
とか、呼ばれちゃったりして。
「ひゃー……すき」
敬語を崩さない彼女からは、想像もつかないけど。でも、バーで会った時は友達相手に呼び捨てだったもの。きっと、仲良くなったらタメ口も。
「そこまで……仲良くなれるかな」
あくまでも職場の付き合いって、割り切ってたらどうしよう。彼女、真面目だからありえちゃうのよね。
そうなったら、脈も何も。
電球のない部屋で、電気をつけようとスイッチを押しても虚しいように、恋が始まることはないのかもしれない。
「——なーに。また落ち込んでんの」
「……うん」
「フラレた?」
「ううん」
ひとりじゃウダウダ考え込んじゃいそうで南未に電話をかけたら、休憩中だったのか出てくれた。具合が悪くて早退したと伝えたら、この時間にかかってきたのも納得の様子だった。
だからぽつりぽつり弱音を吐いて、慰めてほしくて。
「もうさ、いっそのこと押して押して、押しまくりなよ」
「でも、それで気まずくなったら……」
「おいおい。なんで失敗する想定なの?」
強気な声が、スマホのスピーカー越しに響く。
「本気になれば、落とせるでしょ。てか、落とすつもりで挑みな?」
「相手は、ノンケだよ?無理じゃない?」
「大丈夫だって」
電話の向こう、不敵に笑ったのが見なくても分かる。
「瑞月は、可愛いんだからさ。自信、持ちなよ」
「……うん」
南未は自信家で、何かと意気消沈しがちな私を引っ張り上げてくれる。だから、こういう時には頼もしい存在で、ありがたい。
「無理でも、またあのバー行こうよ。で、新しい出会い探そ」
「新しい出会いはいらないけど……バーは行きたい」
「熱、下がってからね。今日は寝とき」
「うん。ごめんね、仕事中に」
「いーえ。終わったら、看病しに行ってあげるから待っとき。もう終わるから」
「助かる」
気が楽な通話を終えて、切ってすぐ。
『ご迷惑でなければ、家に伺ってもいいですか』
社用携帯の方に、通知が入っていた。
メッセージの相手は、日暮さん。
「え。嘘……」
来るの?
自分を包む周りの状態を見回せば、彼女のジャケットを着たくまに、投げ散らばった脱いだばかりの服に、昨晩から放置している洗い物に。
入社式で撮った写真の、日暮さんの部分だけを切り取って飾った写真立て。
「ま……だ、だめ!」
これを、見られるわけには。
でも、おうちには来てほしい。会えるなら会いたい。
「片付さなきゃ……!」
こうして、体温38.3℃の私はベッドを飛び降りたのだった。
南未にこのことを報告するのも、忘れて。




