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烏猫の箱庭  作者: 彩︎華じゅん


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第3話

 有紗ありさが車を発進させる。

 二人を見送る雅美の姿が見えなくなった頃、助手席に座った早苗さなえは深々と頭を下げた。


「すみませんでした。雅美さん、怒らせちゃって……」


 有紗は「いえ」とだけ言い、近くのコンビニの前でウィンカーを出した。


「少し、寄りますね」


 駐車場に停車した有紗は全ての窓を開け、ハンドルにもたれかかって深い息をついた。


「大丈夫ですか?」


 尋常でない様子に、思わず声をかける。

 有紗は、ただ無言で首を振った。無造作むぞうさな前髪の隙間からじっとりと汗ばんだ額が覗き、半袖のスクラブから覗く腕が、粟立っていた。


「むしろそちらが。怖い思い、しましたでしょう?」


 メガネの奥、細い目がこちらを流し見るように動く。


「はい、ぶっちゃけ……」


 片山宅から離れたことで緊張が切れたのだろう。

 ずっと肺を満たしていたあの臭いが、ムカムカとした吐き気が、一気にこみ上げてきていた。

 うっと口元を押さえた早苗を見た有紗は、カバンをごそごそと漁る。


「一度降りてください」


 駐車場に降り立った有紗が手に持っていたのは、消臭スプレーだった。


「業務用なので、多少はいいかと」


 早苗と自分の体にスプレーを振る彼女の手つきは、いやに慣れていた。

 ひとしきり処理を終えた彼女は、今度はビニール包装のマスクを取り出す。


「新しいマスク、使ってください」


「ありがとう……ございます」


「駐車場借りたので何か買ってきます」


 早苗に背を向けてマスクを付け替えた有紗は、さっさとコンビニの店内に入って行ってしまった。


田鎖たくさりさん、いつもこんなことしてるのかな……)


 助手席に戻った早苗は、受け取ったマスクをぼんやりと見つめる。

 片山宅は、はっきり言って異常だった。

 思い出すのも恐ろしいあの空気の中、有紗もケアマネージャーも、顔色一つ変えることはなかった。まるで、猫の声も、臭いも、最初から存在していないかのように――


 詰め寄ってきた雅美の顔が脳裏に蘇り、早苗はぶるりと身を震わせる。

 運転席のドアが開く。

 同時に差し出されたのは、ピンク色をしたいちごミルクのボトルだ。


「あ……すみません」


(何でいちごミルク……?)


 乗り込んできた有紗が、さりげなく足元に置いた袋に目が行く。

 中にはおにぎりやレトルトの豚汁などが入っていた。どうやら、ちゃっかり昼食も調達してきたらしい。


「田鎖さん……ナエさんちって……」


 ウーロン茶のキャップをパキリと開けた彼女に、おずおずと問いかけた。


「すみません。先に言えば良かったです。まずは実際に見るのが早いと思って」


 先ほどと同じように、有紗は早苗に背を向けてウーロン茶のボトルを傾ける。


「さっき虫壁むしかべさんが開けたのは、ナエさんの部屋です」


「でも……他の部屋は綺麗でしたよね? お花もいっぱい飾ってあって……どうしてあの部屋だけ、あんな……」


 『あんな』に言葉を次ぐことは出来なかった。

 有紗は窓の外を眺めながら、ため息をつく。


「今から話すことは、民生委員さんや地域包括からの情報です。少し長くなりますが、生活相談員として知っておかなければ困ると思うので」


 開け放たれていた窓が、閉められる。


「ナエさんの息子さんと雅美さんには、子供がいません。お二人は、結婚してからしばらく街中のアパートで暮らしていたんです。だけど、新居を建てたタイミングでナエさんが病気をして、それを理由にしばらく同居することになったと」


 コンビニから出てきた親子連れが、車の横を通り抜ける。


「息子さんも雅美さんも仕事がありますから、子供を持つタイミングについてかなり慎重に考えていたようです。しかし、ナエさんは何度も何度も孫をせっついて、それがきっかけで雅美さんはうつになってしまって……」


 傾けられたウーロン茶のボトルが、水音を立てる。


「雅美さんが鬱になる前から、息子さんはナエさんを何度も実家に帰らせようとしたようでした。でも、家に帰らせようとする度に大声を上げて、夫婦が仕事でいない間に近所に悪口を言いふらして、雅美さんのタンスの中から出した下着を玄関先に並べて……」


「そ、そんなことを……!? ナエさんがですか!?」


 早苗は思わず声を上げた。

 穏やかに歌うナエの姿と、有紗が話す鬼のような人間のイメージが、どうしても重ならなかったのだ。


「ええ。もしかしたら、ナエさんはその時点で何か発症していたのかもしれませんね。受診もしていなかったようなので、本当のところは分かりませんが」


 初夏の日差しが車内をあたためる。

 ハンカチで額を押さえた有紗は、言葉を続けた。


「そんな状況で、雅美さんは病院通いをして薬を飲んで、頑張っていたようです。だけど、鬱が寛解かんかいすることはありませんでした」


「ナエさんがいたから……ですか?」


 隣の車に乗り込んだ親子連れ。子供が、買ってもらったらしいお菓子を笑顔で受け取っているのが見える。


「さあ、断言は出来ません。雅美さんはナエさんが認知症と診断されてから、とてもかいがいしく世話を焼くようになりました。それはもう、赤の他人から見ても過保護なほどに。見ましたよね? あの部屋でナエさんがどんな状態だったか」


 早苗は先ほど目にした光景を思い出し、ぐっと言葉に詰まる。


「雅美さんの『介護』の成果ですね。足腰が丈夫だったナエさんですけど、あっという間に歩けなくなりました」


「……それって、虐待じゃないんですか?」


「ええ、虐待と言って差し支えないと思います」


 ウーロン茶の最後の一口が、こくりと飲み込まれる。


「ナエさんが外に出なくなったことに気付いた民生委員から、地域包括に相談がありましてね。ケアマネがついてうちのデイを利用しはじめるまでかなりのすったもんだがありました」


「そ、それでも、何とかならなかったんですか?」


「ならなかったからの今ですよ。転ばないように、お尻に床ずれが出来ないように、喉に詰まらせないように、一人寂しくないように、引っかかれたりしないように……そんな名目であの過保護な『介護』が与えられ続けていたら、ナエさんにどんな未来があったか、分かりますよね?」


 早苗の背筋に、ぞくりとしたものが走る。


「雅美さんは、何がなんでも自分がナエさんの面倒を最後まで見ると言い張りました。民生委員、地域包括のケアマネ、そしてあなたの前任の佐藤さん、皆で説得して、最終的に息子さんが土下座してようやくデイの利用だけ認めてもらったんです」


 ピリ……ピリ……有紗の指先が、ボトルのラベルを裂く。


「ナエさんにとって、うちのデイは命綱のようなものですね。本人が理解できてるかは怪しいところですが……」


「ひどいです……あんなに優しいおばあちゃんなのに……」


「ひどいからです。ケアマネと私たちデイ職員は、ナエさんの命綱までなくしてしまわないよう、体調から何からマメに様子を窺っているんですよ。雅美さんを下手に刺激しないように、慎重に――」


 空になったボトルが、ぐしゃりと握りつぶされる。


「寄り道してしまいましたね。戻りましょうか」

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